身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

大量殺戮ストッパー。

 同じテーマで書くのは(たぶん)4度目である。2度目に、ある程度の結論が出ている。また、3日前のエントリーも、関連する内容である。前もっ書いておくと、内容も結論も、標題のようにセンセーショナルなものではない。

 

 久しぶりに、熟睡とはいかないが普通に眠れた。主治医が一時的に薬を変えますと言って、それが昨日の夜からだったので(夜以外は薬を服んでいない)それが効いたのだろうと思う。

 ちょっと本題とは逸れたことろから話を始める。鷺沢萠『私の話』は私にとって第3くらいのバイブルのようになっているのだけど(第1は広辞苑?)、そのために持ち歩きすぎて失くしてしまった。恥ずかしいが、持ち歩く本にはカバーに年賀状の差出人欄などに押す住所印を押した。

 メルカリで鷺沢萠作品を多く出している人がいて、その人が『私の話』も出品していたので、数冊、まとめて買った。以前も鷺沢萠作品をお求めになりましたよといわれたが、色々なところから買っているので、正直、記憶がない。

 『祈れ、最後まで・サギサワ麻雀』の初版初刷帯付きも出してらっしゃったのだが気が付くのに遅くて惜しいことをした。これは、一見、麻雀小説に見えるが実は人情ものという代物で、麻雀好き以外で買う人が少ないため、なかなか程度がいいものが入手できない。

 そして出品者と2人で、こういうことを話せるのは鷺沢先生が取り持つ縁ですねという話になった。鷺沢先生、天国で、こういう付き合いを見て喜んでるかな…。

 さて、「神経科通院歴は長い。」で始まる、その鷺沢萠『人生いろいろ』(「かわいい子には旅をさせるな」大和書房版136ページ※リンク先は角川文庫版)に、次のような文章がある。これは、抗精神剤は風邪薬と同じです、偏見を持つのは止めましょうという私からの助言でもある。

 どちらの場合でも抗鬱剤(こういう種類の薬にもさまざまな種類と呼称があるが、ここでも便宜上全般を抗鬱剤と呼ぶ)を処方していただくことになるわけだが、初めて抗鬱剤を服用たときの感動は忘れがたい。「医学バンザイ! 文明バンザイ!」というような気持になった。

 風邪を引いて、なかなか熱が下がらないのに、つい億劫で病院に行かずに市販の風邪薬を服んで誤魔化し続けていたが、ある日覚悟を決めて病院に行き、点滴を打ってもらったら嘘のように気分が良くなった、などという経験は誰にでもあると思う。心の中でバンザイを唱えたときの私の感動は、たぶん、それに似ている。

(瓜ヶ谷注・「どちらの場合でも」=思い当たる原因がある場合にもない場合にも、「ここ“でも”便宜上」=精神科医等を十把一からげにして「シュリンク」と呼ぶように)まぁ、彼女が、この辺に、まどろっこしい言葉を使うのは

 シュリンクを訪れるという行為をはじめて実行に移すに至るまでにはかなりの躊躇があり、またちょっとした勇気も必要であった。精神・神経科関係の医院・病院は「特別なところ」と捉えるような風潮がまだあったし———いや今でもあるかも知らないけど———、そういうクリニックに通っているという事実自体を「人にはあんまり知られたくない」というふうに、私自身が考えていたと思う。

などという表現が出てくるので、その辺が理由だろう。ほとんど引用しきった感じがあるが、さらに結末も引用する。(これは筆者が「シュリンク」の話を聞いて、そう思うのだが、Amazonのレビューで、ここだけ抜き出して一般論のように書いている人がいて、少し心外。しかも高校生に向けて書いているのだから、あなたのせいで読む気が失せたらどうするんだといいたい。だから私は、できるだけ一部引用をしないようにしているのだ。)

人生いろいろ。人間いろいろ。しかし日々新しい発見と勉強をし、それを死ぬまで続けるのが人生であり人間という生きものなのだ、ということは言えそうである。

 さて、本題に戻る。この文章の中で、筆者は通院歴が長い自分を「門前小僧」といって自分の考えを「シュリンク」に確かめるのだが、なんとなく自分がしていることに似ている。「発見と勉強」とはニュアンスからして違うが、つねづね書いているように人間は幸せを追求していくものだと思っている。「発見と勉強」は、その過程で必要なのかもしれない。

 私も、筆者のように「門前小僧は考えた。」私が犯罪を犯した理由についてである。最近、瓜ヶ谷のTwitterアカウント (@urigayatsu) で、以前は非公開アカウントにしていたので同様なBlogを書いている先輩と、公開アカウントにしてからは読者の方とも交流させていただいている。

 そこで、一種の自傷行為ではないかと指摘してくれた方がいて、実は、それは私も考えたことがある。その方は自分にとって無為なことという点に着目されたようだが、もっと自暴自棄で、最初のころは自分なんか犯罪者になってしまえという気持ちがあったと思う。

 この常習性は、どこから来るのかという点にも注目してくださって、一種の依存症ではないかと考えていらっしゃるようだ。会社員時代、午後5時になると飲みたくて居ても立ってもいられないということもあったが、はたして中毒なのか。これは、私自身、依存症になったことがないので、よく判らない。

 一昨年かも、1日に缶チューハイ(ストロング)の500㏄を10本飲むということが1ヶ月くらい止まらなかったときがあり、このときも主治医は依存症を疑ったが、ここ4ヶ月以上、実家で致し方なく飲む以外は飲んでいない。結果、主治医の診断は意識障害ではないかというところに落ち着いたのだと思う(うろ覚え)。

 まだ脱線から戻れていないし、これだけ他のことを書くと、本題が、なんだ、この程度かで終わってしまいそうだが、やはり、自分なりに考えて、主治医の医者としての経験(私の場合はカウンセラーがいないので保健師さんやTwitterの友人など)と照らし合わせていくことの重要性を思い知る。

 

 やっと、今日のことである。疲れは取れているが、眠剤としてサイレースロヒプノールと同じ)が出たので、それの副作用であることは判っているのだが口が乾き頭がガンガン痛い。それと同時に感じるのは、これは、外に出たら何かするな… ということである。

 以前、窃盗(万引き)を犯したのは、当時の主治医(今から彼をクズ医者と呼ぶ)が、このような感情を抱えているときに、「外には狂犬がゴロゴロしている訳ではないのだから言い訳をしないで外出しなさい!」と言った結果の産物である。

 クズ医者のクズっぷりは、私が心臓が針の筵の上で転がされている感じがするという主張を、半年で総白髪になったり心不全で救急搬送までされたのに、ゴロゴロするための言い訳と言ったり、繰り返しになるし不愉快なので、詳しくはこの辺を参考にしていただきたい。

 それに対し、今の主治医は謙虚であろうと努めているという。以前も書いたように、今の主治医は国語力少し覚束ないところがあるのだが、ここでいう「謙虚」の定義というかニュアンスとしては、患者の症状を「傲慢な決め付け」をせず、冷静に、客観的に見て、診ようといういうことのようだ。

 なんか自分の国語力も怪しくなってきたが、その謙虚(?)な今の主治医に、よく両親を虐殺しませんでしたねと言われたということも書いた。私は1972年の生まれだが、父親が43歳のときの子供なので、まさに「酒鬼薔薇聖斗」や秋葉原無差別殺傷事件の犯人など(当時は「キレる世代」といわれた)と同世代の親を持っている。

 私の親は客観的に見てキチガイで叔父はアル中だが、それ以前に、世代的に、そういう、子供を追い詰める性質を持っているといっていいかもしれない。また、父は、当初、国家公務員だったのだが、その職種にも、そういう人が多いらしい。

 何がいいたいのかというと、酒鬼薔薇聖斗は精神に異常があるようなので別として、私が西鉄バスジャック事件や秋葉原無差別殺傷事件などを犯していても不思議ではないということだ。自分が犯した窃盗を含めて、それらを未然に防ぐには、今、お世話になっている保健師さんなどのように、そういう時は外出しなくていいと言ってくれる人である。

 犯罪を犯すの予見して、というか本人が、そうしそうで怖いというのに、無理して外出させる医者は、ドラマBiz的にいうとクズ中のクズである。しかも、自分で外出を唆(そそのか)しながら、私はガキで善悪の判断が付かないなどという診断書を書く。だったら何かしそうで怖いとも思わないはずだ。

 外出できないことを叱咤激励せず、ちょっと良く判らない気分なのですとかいうことがあったら、積極的に外出を控えて休養するように勧めて欲しい。引き籠りは良くないなど、逆療法にもならないと思う。大量殺戮でなく万引きで止まったのは、私の大人しいといわれる性格からかもしれない。

 しかし、大人しいといわれても、何回かいても、私の親とクズ医者は殺人教唆で告発したいな。