身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

障害は犯罪の理由になるのか。

 風邪でダウンしている。昨日、渋谷に行ったときから喉が痛いなと思ったが、一晩、眠れば治るだろうと高を括っていた。それが寝ている間に鼻と喉が苦しくなって慌てて風邪薬を服んだが、すでに体力は落ちていたようだ。

 それでも今日は通院なので、無理して起きて服を着替える。机に向かうのも辛い。実は、このエントリーの代わりに小物特集を書いたのだが、最近、PC関係のエントリーばかり読まれて癪なのでアップしない。もっとも、それは文学的なものが読まれていないから相対的に読まれているように感じられるに過ぎないのか知れないが。

 さて、今日の通院で、主治医に、よく両親を惨殺しないで済みましたねと言われた。それをしないだけの才能があると言われたのだけど、才能というか努力だと思う。ちなみに、この主治医は、名医との出会いがあっただけで私の人生は悲惨ではなかったと言った人物である。

 その件について「悲惨な人生。」というエントリーをアップしたが、どうも、真意が伝わっていないというか自分が書きたいのとは違う方向の文章になってしまい、さらに、それが意外と読まれているので、かなり戸惑っている。書くことは考えること。再び書いて考えることにする。

 自分も小さな犯罪を犯したが、それは、別に自分の環境が不遇だったというのとは違うと思う。私が、そのときのエントリーを書いていたとき、この本の筆者が、それに乗じて自分の犯罪を正当化していることに憤りを感じたのだと思う。

 加えて、これだけ自分が怖いと思っている刑務所の方が社会より過ごしやすいと思っている人たちがいる、可哀そうに、という書き方だ。しかし、決して社会の方が塀の中より過ごしやすいとはいえない。私が拘置所で見た受刑者の生活は、通勤電車で疲れて吊り革に掴まっている人たちの生活より、自由はないが、のんびりしていた。

 こんな酷い環境の方が社会よりマシなんだって! というのなら、まず、この本の筆者は世間知らずである。「現在の私は、障害者福祉施設に支援スタッフとして通う」とか元代議士ですとかいっているが、1日に8時間の役所や会社勤め+残業・通勤の方が、懲役よりも酷である。まず、その、甘さに腹が立った。

 一審での有罪判決を受け入れたことなど偉くも何ともない。「秘書給与搾取という申し開きのできない罪」という書き方に呆れた。筆者が描く“累犯障害者”と違って精神的な余裕があったのに犯罪を犯したいうことだ。あなたに投票した有権者は、その程度では済まない忍耐を強いられているのに犯罪など犯してはいない。彼らに、どう弁解するのだ。申し開きできないといいながら、よくメディアに名前を出せたものだ。

 筆者の甘さの次に腹が立ったのは、障害者は可哀そうという視点というかアングルである。ここで腹が立って私は本を図書館の本棚に返してしまった。自分で買った本ならシュレッダーにかけたくらいでは気が済まないくらい腹が立った。本当、CDならライブをしている本人の前でバリバリに砕いてやりたい。

 人間、得手不得手があるし、すべてのことができるはずがないが、何かはしなくてはならない。それは障害があるなしに関係がないことだ。不快感の原因は、まだまだ考えなければいけないと思うが、今のところは、やることをやっていない筆者が、努力している障害者を下に見ることで優越感を覚えていることが不快なのだと思っている。

 少なくとも私は、障害や不遇な環境というようなものを免罪符にしたくはない(少し遅かったというか力が及ばなかったが)。筆者みたいにテキトーな人生を送りながら辛くて犯罪を犯しましたとアピールするの嫌だもの。これが、たぶん、私が両親を惨殺しなかった理由だ。