身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

家族編。

ウェルカム・ホーム!(新潮文庫)

 

 昨日は疲れて横になっていて、時計を見たら午後8時50分なので驚いた。写真しかアップしないというヤッツケ仕事なのに、普段より好評というのは如何なものか。まぁ、好評の定義は多々あって、このBlogの本来の目的とは少し離れて、「ほぼライブ」に近い評価でである。

 さて、今日は銀行に相続の手続きに。父が死んだときと違い、今回の叔父と母の場合は、提出先も少なく、私の祖父母に当たる2人だけの人間の生まれてから死ぬまでの戸籍を取ればいいので、特に法定相続情報一覧図は作らなかった。

 何度も同じことを書いて恐縮だが、我が家の戸籍は、都内、それも千代田区(麴町区)と港区(麻布区)で完結している。郵送と違い、ブラッと取りに行ける。どの戸籍も「原戸籍に依り出生届事項を知ること能はさるに付其記載省略」(日付明記なし)ということから始まる。新たに書き起こされているものもあれば、白塗りされているものもある。

 この後の記載が、どれも明治40年前後なのだが、この辺の戸籍というのが、非常に読みにくい。おそらく筆で書いた字もさることながら、以前も書いたが、親をキーにして子供がブル下がっているだけでなく、兄弟がブル下がったりして従兄弟が載っていたりする。

 私のプライバシーの関係もあり詳細は省くが、私の祖父が生まれたとき、他の戸籍に載っていたのではないのか? と思える記述があるのだが、区役所も、そこが最も古いと言い、今日、行った銀行でも漏れがないと言われたので、おそらく、それが正しいのだろうが、なんか、腑に落ちない。

 しかし、ずっとバンク・テラー(銀行の窓口係)というものを舐めていたが、相続担当の人は戸籍まで読めないといけないのか。高校から銀行に入社した同級生が、お前はL/C(信用状)が読めて羨ましいよ… と言っていたのは、きっと、その同級生は外為担当に回されているのだろう。ごめんよ、バンク・テラーに、そこまでの専門性が問われるとは思わなかったよ。

 そして、銀行で控えを取ってもらって返された戸籍謄本を行きつけの喫茶店で見直してみる。ちなみに「コンフィデンスマンJP・家族編」に登場した店で、騙し合いが繰り広げらていた同じテーブルに座った。それも、このエントリーの後の方へ絡む話である。しかし、へへへ、桜井ユキさんと同じ席に座ったぞ。

 店の人には、いつもカウンターなのにヘンなの、という目で見られたが、こういうことにワクワクできると人生が楽しい。陳腐な表現だが、まるで、自分がドラマの主人公のように感じられる。そうでなくても、アナタはドラマの主人公のような人生を送っているよと友人に言われたが、だったらドラマを書かせるような才能をくれよと思う。

 そして、例によって、鷺沢萠氏の本を読む。今回は、著作ではなく彼女についてのエッセーや書評などを読む。そこで出てくるのが「家族」というキーワードだ。やはり『ウェルカム・ホーム!』という著作が俎上に上がることが多い。

 鷺沢萠は血縁というものにこだわっていた… というのは、「駆ける少年」を書くに当たり自分に韓国人の血が流れているということを知り韓国に留学までしてしまったという事実から有名な話である。

 しかし、今日は、それに拘泥しない鷺沢氏の家族観に触れるエッセーを読んで目からウロコだった。「現代女性作家読本」のシリーズで、急逝したので「別巻」として急遽編纂されたという「現代女性作家読本 別巻① 鷺沢萠」に収録されている、武蔵野大教授・原善先生の(関係ないけど武蔵野女子大が武蔵野大になったのは2003年のことだそうだ)「鷺沢萠川端康成/孤児根性と体温中毒」という1編だ。

 あくまでもポイント・オブ・ビューの話で、専門の川端康成と重ねてどうのこうのというのは省くし、見解も省く。ただ、この読みは当たっているな… とは思った。血縁に縋らなければならないのは、そうでなくては自分が孤独だからだ、そう捉えると合点がいく作品は多い。原先生が文中で引いている作品以外の、たとえば、私が「それで将来に不安はないの?」と書いた『少年たちの終わらない夜』・『スタイリッシュ・キッズ』に登場する青年たちも、やはり孤独である。

 短絡的にまとめると、血縁にとことんまでこだわった挙句に達した境地が『ウェルカム・ホーム!』に出てくる家族像だと言えるだろう。講談社文芸文庫版『帰れぬ人々』の解説は、やはりクズだと思うが、末尾に年表が付いているので、著作から見る筆者の心境の変化を楽しむのも、また興味深いかもしれない。