身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

盲目を支える理性(辻村深月著「盲目的な恋と友情」を読んで)。

盲目的な恋と友情 (新潮文庫)

 

 「恋」と「友情」の2編からなる作品で、「恋」を読み終わってから数週間、放っておいたら人間関係を忘れ、最初から読み直した。今度は「恋」だけストップせず、最後まで、ほぼ一気に読み通した。

 面白かったのだが、感想を書くには、なかなか難しい本である。同氏の作品は「ツナグ」以来なのだが、凍った道路に放水するようなギミックは再び投入されていて、最後まで見通して書かれた物語に破綻はない。

 「恋」と「友情」は、学生時代から主人公の結婚式までの時の経過を違った登場人物の視線から描いた作品であるが、登場人物によって、こうも見方が変わるものかと驚かせる。「友情」の主人公の考え方は、私にとっては、なかなか共感し得ないないものだが、そのような考えに至る客観的事実が記されていて、そういう境遇なら、そう考えても仕方がないと思わせる。

 その「友情」の主人公の行動は盲目的といえば盲目的なのだろうが、かといって一時の感情に流されて無鉄砲な行動をしたのではない。結末に大どんでん返しがあるのだが、それも、それらの緻密な計算の上に成り立っているから怖いともいえる。

 その視線からいうと「恋」の主人公の恋愛も、「友情」の主人公に欲と快楽と罵られるほど理性を失っているようには思えない。エポックメーキングな事柄として書かれているエピソードにも、さほどの意外性は感じられない。

 「盲目的」というタイトルは、それらの思考へのアイロニーとして付けられたのかもしれない。一時の感情で行動を起こしたのではなく、理性で計算しつくした上で、それの行動が生まれたと思うと、共感し得ない考えに基づくために狂気が引き立つ物語となった。

通院の記録。⑯

 慶應義塾大学は学園祭(三田祭)の最中。

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 今日の通院では熟睡できるようになったこと、昼間、寝てしまうことなどを主治医に話す。1時間半ほど眠ると言ったら、せめて1時間にと言われ、1時間半寝ても夜の睡眠には響かないと話したらビプレッソが頓服のみになった。

 また、話すときに他人の目が見られない、なかなか風呂に入れないと話したら、何か考えていた。そして、最近、物を盗ってしまいそうになることはないかと訊かれ、最近、そういうワーッとなってしまうことはないですねと言って、診察終了。

子供の中学受験。

 やっと、今日、ある程度、普通に活動できるようになり渋谷に買い物に行った。帰りに渋谷スクランブルスクエアでも見てこようと思ったのだが買い物が多く断念。

 帰りのバスで、他人が広げた雑誌記事が目に入る。お笑い芸人だか何だったかが、子供の私立中学の数回にわたる入学説明会(なるものがあるのか)に妻だけに行かせて、学校側に両親揃って進学に熱心だということがアピールできていないとあった。

 それで思い出すのがサラリーマン時代のこと。上司が休暇を取って子供の中学受験で受験番号1番を取るべく早朝から願書出願の列に並ぶという。

 休暇を取るのは個人の自由だが、受験番号は1番でなくてもいいと思うし、そんなことで熱心な父親をアピールしなければ中学入試というものは通らないものなのか。私は四谷大塚進学教室のお茶の水校舎に通っていたが、そんな話は聞いたことがない。

 私が選抜する側だったら、そんな親は自分の本分も果たさずに子供に甘いと見て、むしろ評価は悪化すると思う。そんなことをしなければ入学できない学校というのは、社会に、どういう評価を与えているのか知りたいものだ。

 そんな学校に入るのだったら、普通に公立の中学に行って普通に公立の高校に行った方が良い気がする。私は公立に落ちて私立の高校に行ったが、公立の高校でも、一流の大学には入る。大学にエスカレーターで行けるのなら別だが、そのための学力を付けさせることが教育熱心というものだろう。

 とはいえ、かつて、私のネットストーカーが、私が公立高校の受験を自分で言い出したと殊更のように書いていたので、公立高校の受験が普通のことではない人物はいるようだ。

 そういう人間にとっては、たしかに学力とは違った方面からのアピールで中学から私立に押し込まなくてはならないだろうが、それはマイノリティーだろう。ちなみに私のネットストーカーは高卒で、社会に出てから金を払えば誰でも入れる専門学校に進んだそうだ。私立高校に通っていて専門学校にも進学できなかったら逆の意味で凄い。

 私は専門学校神田外語学院の卒業だが、小説であるが篠田節子さんの「銀婚式」などを読むと、専門学校ではなく大学であっても、授業料目当てで中学の授業にも付いていけない学生を無選抜で入れる大学もあるらしい。

 これらの事実を鑑みると、親の熱心さを説明会の参加回数や願書受付に来る早さで計るような中学の受験は、むしろ出来が悪い生徒のするものかもしれない。私は、むしろ、そんな説明会に行かない芸人と思しき雑誌記事の主人公に親近感を覚えた。(香川照之さんのように暁星から東大に行っているような事例も知っているが、暁星は校風が良いから、そんなことでは選抜しないだろう。)

テンポが勝負(映画「娼年」を観て)。

娼年

 

 相変わらず眠剤が残って起きられない。やっと起きたのは午後3時で丸1日の予定をキャンセル。何度も書いているが、活動できる時間が少ないうえに、活動できない時間も苦しいのは辛い。

 夜、眠るまでに一仕事できない微妙な時間である。CATVで「日本映画専門チャンネル」の契約をしていて、適当な映画をエアチェックしてあるのだが、今回は、その中から掲題「娼年」をセレクトして観ることにする。

 この前の「日々是好日」から、映画を最後まで観られるようになった。その前に「カメラを止めるな!」にチャレンジしたのだが途中で投げ出して、自分の感性が普通の人と違うのかと思ったら、拝読しているBlogに同作品のことが記されていて、どうも退屈だと思うのは私だけではないようだ。しかし飽きても消していないというのは、リトライしようと思っていたからだろうか。

 さて、「娼年」は、かなり昔に原作を読んでいる。続編「逝年」と併せて読んだので、おそらく、10年ほど前のことだ。原作は、登場人物の性癖や服装のセンスについての描写が活き活きとしていて、石田衣良さん、乗ってるな~ という感じがあったのだが、残念ながら映画では、それが失われている。

 尺が2時間あり、その半分が性描写に費やされている。この映画にアダルトビデオ的なものを求めている人はいないと思うし、たしかに、それよりは叙情的な描写ではあるが、さすがに延々と見せられると嫌になる。 松坂桃李さんのファン向けの映画なのか。

 この作品は、石田衣良氏のセンスを見せるとともに、テーマがセックスであっても、やはり軸は主人公リョウと、それを啓発する売春クラブオーナーの静香の関係で描かれるべきだろう。原作は「逝年」と合併させて静香の最後まで描いてほしかった。

充実しない1日。

 また眠剤が残って起きられず、起きても再び寝てしまった。一昨日は日記を付け忘れる。他にも、例えばTVドラマ「グランメゾン東京」を観て、料理とは、そんなに懸命になるものかしらと思ったり、ペットボトル飲料を買って、こんなものは何バレルもの原油から見れば些細な量だよなと思ったり。

虫の知らせ。

 最近、耳にしなくなったなぁと思う言葉に「虫の知らせ」がある。私自身を顧みても、友人から電話連絡がないから何かあったのではないかと思うこともなくなり、これは文明の進化とともに廃れていった能力ではないかと思った。

 ここで改めて「虫の知らせ」の定義を調べてみた。とりあえず、正統に国語辞典で。

虫の知らせ(ムシノシラセ)とは - コトバンク

大辞泉

よくないことが起こりそうであると感じること。

大辞林

何の根拠もないのに、よくない出来事が起こりそうだと心に感ずること。

 悪いことが起こる(あるいは起こっている)予感というところだろうか。しかし、辞書の定義とは別に「自分や親しい人の死を予知する力」と限定的に書いている雑誌記事を見付けた。

gendai.ismedia.jp

 

 理論は後付けと言われるが、1年ほど前に父を亡くしている私には、それを言ったら… というのはある。なぜ父が死ぬ前日に親族全員(といっても4人だが)が集まったのか。そして、象徴的なのは、揃って写真を撮ろうと言われたことだ(撮らなかったけど)。母も、父が死ぬ前日に、明日、何かをしてやると言われ、普段は他人に何かする人ではないのに珍しいなと思ったそうだ。

 しかし、これらを「虫の知らせ」と言ってっていいものか。別に「自分や親しい人の死を予知」して、それらの行動を取ったのではないだろう。むしろ因果は逆で、死にそうだから親族を集めたのではなく、むしろ安心したから死んだようにも思う。それに「虫の知らせ」とは行動を取ることではなく、虫に知らされる、すなわち感じることだからだ。第一、「よくないこと」は死だけとは限らない。

 ただ、この記事で興味深く感じるのは、「お迎え現象」という「死の間際に亡くなった人々が枕元に立ち、あの世への道案内をしてくれるというもの」に関する記述。

 お迎え現象が起こるのは「自宅」が87.1%で圧倒的に多く、「病院は」わずか5.2%。亡くなる数日前が一番多く43.9%で、ほとんどの人はお迎えが来てから1~2週間以内に旅立っていた。

 近代的な医療機関のほうが圧倒的に少ないということは、この記述は冒頭で私が述べた、文明の進化が虫の知らせを少なくしているのではないかということと合致するような気がする。ただ、この「お迎え現象」についても

興味深いのは患者の反応で、お迎えが来ても「怖い」と思った人は少なかったようで、お迎え後の故人の様子を尋ねると、「普段どおりだった」「落ち着いたようだった」「安心したようだった」などの肯定的な回答が45.8%。「不安そうだった」「悲しそうだった」などの否定的な回答36.8%を上回っていた。

 そうで、否定的な回答より肯定的な回答を上回っているのなら、やはり、それは、嫌な予感、すなわち虫の知らせとは言えないのではないかと思う。しかし、昨日、書いた映画「日々是好日」の中で梅雨の雨音と秋雨の雨音の違いというのが出てきたが、そういう感受性は、どんどん薄れていくであろうことを、私は、しっかり感じる。

美しい日本の好日(映画「日々是好日」を観て)。

日日是好日

 

 日本映画専門チャンネルで放送された「日々是好日」を録画してあったので観た。「日々」というタイトル、茶道という題材からして単調な日々が綴られていくのかと思ったが、退屈せずに最後まで観ることができた。

 冒頭に、子供のころに観たフェリーニの映画「道」の、どこが面白いのか判らなかったというような台詞があるが、見終わった後には判らない人にも向けた映画だったのだなと思う。

 あらすじとしては、黒木華さん演じる主人公の典子と多部未華子さん演じる従妹の美智子が樹木希林さん演じる茶道の武田先生に茶道を習いに行く。美智子は即物的な今どきの子として典子との対比として置かれるのみで、実質、典子の物語だ。

 章立てとしては二十四節気ごとの稽古の場面が順を追って描かれていて、そこに典子の身に起きたことが投影する形で描かれる。就職に失敗した、婚約を破棄した、父が死んだ…。それでも止めなかった茶道。

 面白かったのは、その時その時によって変わる掛け軸。茶道どころか書道の面白さも判らない私だが、メインテーマの作りと同じで、その良さを判るように作ってある。他にも季節による雨音の違いなども描かれていて、そのバリエーションの変化が楽しめる。

 そして、24年、茶道に通い続けた典子は、ついに「道」の良さが判る境地になる(私もタイトルしか知らなくて観たこともないけど)。大局的には、その境地の変化が描かれているわけだが、晩年の典子の境地は、さながら「美しい日本の私」だ。ある種の悟りを開いた典子は、茶道の先生となることを決意して映画は終わる。

 どんな日も好日に変える、そんな日常の知恵を茶道を通じて描いた映画だといえるだろう。

ほぼライブ - インフィニティ・ダイヤモンドヴェール

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新しいダイヤモンドヴェールも既に通常運転。明るくなったのか、以前に比べて露出を1段落として、ちょうどいい感じ。

 

 

 

撮影データ
日時:2019年11月16日・20時30分
ボディ:PENTAX K-3
レンズ:smc PENTAX-DA 18-135mm F3.5-5.6ED AL[IF] DC WR の135mm端
絞り:f5.6 (開放)
SS:1/30s (Auto)
感度:ISO 6400

通院の記録。⑮

 昨日も三田通りのクリニックへ。

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 先週、薬が変わって、朝、起きられるようになったと思ったが、2日間、3時間しか眠れず、翌日は逆に起きれない。昨日も、時間は十分だったのだが熟睡した感じがしない。

 とりあえず、その報告。薬を色々と調整。ビプレッソという薬が出る。記憶にないが、1年ほど前に試して、効き目がないと止めた薬だそうだ。今、調べたらセロクエルと同じ薬なのね。

 本来は統合失調症の薬で、私は統合失調症ではないけど、鎮静作用と抗鬱作用があるのでとのこと。量が少ないと効き目がないということが判ったのでと、今回は150㎎が2錠。前回は1錠だったようだ。

 そうそう、障害年金用の診断書が11,000円。友人で成人する前に厚生年金を収めていたので障害厚生年金が降りることになったという人がいて、私も当時の主治医がサラリーマン時代の発病としていれば降りたのにと思う。

 その友人が厚生年金を収めていた時期から20年以上が経っているし、発病時期が違うだけで障害厚生年金が受けられないなど、年金制度というのは、かなり改正が必要だと思う。変わったとしても私は時期的に無理だろうけど。

嫌な感情を伴った目覚め。

 少し、昨日、書いたこととシンクする。昨日、母に、死ぬ前に庭師を入れて排水管の清掃もしなくてはならないと言われ、あの身体で、それをやるのは大変だなと思った。代われるものなら代わってやりたいが、私も、そんな状態にない。

 そんなことがあってか、すでに目が覚めたときから、母が死んで家を売るときに、例えば家に生えている樹や家具などを、どう処分したらいいかと考えていた。起きられないことで、なおさら、そんなことはできないと思ってしまう。

 昨日は、文字通り昼過ぎまで起きられず、「ゲームばかりして飽きませんか?」とのたまう同じマンションの住民や、本当は動けるのにゴロゴロしたいために言い訳をしていると言った前任のクズ医者のことが頭から振り払えず、他人に言葉を掛けてもらっても自分を責め続けてしまった。

 昔は眠くても振り切って学校や会社に行けていたし、努力しようと思えば血眼とになって何とかしていた、あるいは、しようとすることができた。精神障害がなければ、これらのことも易々とやってのけるのにと思うと口惜しくて、精神障害のことを恨まずにいられない。