身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

無関心の対極にあるもの。

紀ノ川 (新潮文庫)

 

 読むのが遅い私は、やっと、有吉佐和子紀ノ川』を第二部まで読み終わった。そうも長くはないし、表現も平易なのに、1日に、1部、読むのが精一杯だ。歳で気力が衰えたのか。

 第一部の主人公も、第二部の主人公も、母と娘であるが、その表現は違うものの、気が強い点は血が争えない。第一部の主人公のそれがアンダー・ステートメントといった表現なのに対して、第二部の主人公は、派手な表現をする。そして、第二部の主人公・文緒は、冒頭から

避難がましく、あるいはまた驚嘆ともとれる囁き声が、文緒の背後にはよく聞かれた。ℙだが、文緒はそんなことに頓着するどころか、彼女に眉を顰めるものがあれば却ってそれを得意としていた。

 とある。

 昔、神田の専門学校に、あるいは丸の内の商社に、麻布や白金から颯爽と自転車で通う自分を演じていたことを思い出した。実際は金がないなどの無粋な理由で電車に乗れないのだが、東京育ちとして、武士は食わねど高楊枝的なセンスは兼ね備えていたと自分で思う。

 そのころは、本当に、非難する人を見下すように図に乗っていた気がするが、今の私は、一昨日、書いたように、自分の非を打たれれば、それを味方にするどころか落ち込んでしまう。かといって、放っておいてくれと言えないところが、私の甘さでもある。

 ここで思い出すのが、東大の理Ⅲに合格した高校の同級生だ。地頭というものがあるとしたら、入学時の成績も悪く、彼のそれは、むしろ弱い方に入る。しかし、自己顕示欲は誰よりも強く、同級生にも息巻いていたし、授業中も、よく挙手をした。しかし、教師に指されると、ビビッて武者震いをしてしまうのだ。

 彼は東大の理Ⅲに合格したものの、医学部どころか理Ⅰでも入れる学部にしか行けず、卒業するのも大変だったようで、やっぱり、と思わしめた。私は、卒業する前に高校を辞めているので、進学するときの彼の思いを知る由もないが、やっと教師に指されても平気だと思ったのではないか。

 最近、他の小説で、愛の反対は憎しみではなく無関心という言葉を目にし、私は腑に落ちた。実力の大小こそはあれ、けっきょく、「紀ノ川」第二部の主人公も、東大理Ⅲに行った高校の同級生も、私も、動機は他人に関心を持ってもらいたかったということだったのか…。

 

P.S. 知人の女性に有吉佐和子さんって知ってる? と訊いたら早世の美人作家ですよねと言われて驚いた。かつて、中学校の女性同級生に篠田節子先生を知っている? と訊いたら知っていて、また、「紀ノ川」第一部の主人公は、花嫁修業として、芸事の嗜みに加え、第二部中での夫の言葉を借りれば「女学者そこのけの学問」をしているとあり、女性というのは怖ろしいなと思う。