身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

丈に見合った。

 ネットストーカーを名指しで書いたために、ネットストーカーに瓜ヶ谷文彦は私だということを知られてしまった。恐怖で酒を飲んだ上とはいえ、ちっと失敗したかなと思っている。臆して「身の上話」のエントリーがアップできない。

 ネットストカーは数人に私のようなことをして、いずれの人からもクレームを食らっているようである。ただ、他には有名人ばかりで、板眞という人と、安藤一平という人などだ。他ひとり無名人の恨みを買った人から協力を頼まれて、情報提供をしている。

(保身のため削除)

 指摘されてはURLを変えて同様なことを繰り返す。そこまでして私に粘着したい理由が判らない。次に同様なことをしたら法的手段に出ると警告し、こちらも弁護士と提携しているのだが、そこまでは行かずセーフゾーンギリギリで止めている。

 


 

 今日は銀行巡りをする予定だったのだが、グズグズしているうちに窓口営業時間が終わってしまった。日曜日より眠剤が変わって、どうも、寝起きが悪いのだ。

 さて、昨日、書いたように、デスクトップには、後で読もうと思っているWebページへのショートカットが沢山ある。その中から、ひとつ。

 

 次の1文が、ネットストーカーにかつて炎上させられたネタのひとつになっていることも、ちょっと引っ掛かっているのかもしれない。

鼻歌代わりに毎日母親がピアノを弾いているような家庭の子どもは、かなり高い確率で、幼少期からピアノが弾く習慣を身につけるだろう。

 ーーー私はピアノを習わされていた。私の家は音楽など流れる環境になく、それなのに母は私がピアノを習いたいと言ったと言う。そう書いたら、ネットストーカーは、見てきたように、私がピアノを習い始めたと言ったのは間違いないというようなことを書き、期待に沿うよう「賢明に」w生きてきたのに「悲惨な結果」に終わったから母に習わされたことにしたんだと、見てきたように嘘を書いて(他のエピソードも一々、同様な解釈を加え)私のBlogを炎上させた。ーーー

 また、今回取り上げるのは東大受験の話である。これも私が通った高校は、嫌でも東大を受験させる高校だった。それをネットストーカーは、私が東大を受験したがったと、これも見てきたように書いた。

 このエントリーをアップするきっかけという意味で、ネットストーカーに感謝しなくてはいけないのかもしれない。しかし、ストーカーも自分の経歴を、ある程度、明かしているが、決して利口な人間ではない。バカは怖い。

 さて、リンク先が鋭いなと思ったのは、「学問や読書に無頓着な親のもとで育ったために、伸びしろのありそうな子どもの思考範囲が狭く限界づけられてしまっている、というケース」の「その一方」のエピソードについても触れられている点である。

その一方で、私はこんなタイプの人を見かけたこともある;親から「勉強が大事」「一流大学に行くべき」と言われて勉強ばかりして、灰色の思春期を過ごしてきた挙句、さほど学業成績も伸びなかった自分自身に葛藤しているような人だ。このタイプの場合、親は学問の重要性をそれなりに認識しているし、むしろ逆に「走れ、上昇志向だ。勉強すれば栄達できるぞ!」とせきたててやまないぐらいだ。しかし、それでも伸び悩む人は伸び悩むし、人の倍以上ほど勉強をしながら平均以下の大学にしか入学できずに落胆する人もいる。そして最終的に大学中退の憂き目に遭ったり、散漫な就職活動の果てにニートに甘んじるようなケースに、私は臨床場面で遭遇することがあった。親が学問や書籍の重要性を意識していても、全ての子どもが報われるとは限らない。

  私が通った高校は、東大と医学部の合格実績を売りにする高校だった。私は特待生として入ったから、もう、東大に行け行けと煩い。しかし、当時の学年主任のイジメに遭い、授業に出してもらえなかった。しかも居残り学習があるので、その時間も何をしていいのか判らない。

 私は出ていないから何ともいえないが、その授業も、どの教科も、ただ読み書き算盤のように覚えろというものだったらしい。頭のいい人は、物事を系統だって、積み重ねるように考えるから、そんなものは合わない。結果、このBlogエントリーでいう

 ひとつには、その子ども自身の先天的な(あるいは生後きわめて早期のトラブル等による)能力の限界、というものがあるだろう。

 あるいは、先天的/後天的を問わず、なんらかのパーソナリティの偏りが生じて、それが学問の妨げになっているケースや、親子関係のこじれが思春期になって大爆発して、“グレる”状態になっているケースもある。

 こういう人たちには効いたのである。パーソナリティーの偏りが、むしろプラスに働いたのだ。パーソナリティーの偏りにより、自分は頭が良いと錯覚してしまい、能力の限界がないと思ってしまったのだ。

 どんなところでパーソナリティーの偏りを感じたかというと、例えば政治については体制を批判すればいいとだけ思っていて、理論が無茶苦茶なのだ。考えがあるにしろ(ないんだけど)黙っていればいいのに、議論を吹っ掛けて、自分の無理解が露呈しても気が付かない。

 そういう、自分の勘違いに気が付かないことも自分の能力に限界があると思わないで済んだ一因なのかもしれない。その結果、なんと、東大の入試問題を完丸してしまったのだ。努力できるのも才能といえば、彼には才能があったのかもしれない。

 結果として、東大の理Ⅲに合格した。今でも学校のホームページには沿革に「初めて東大理Ⅲ合格者を出す」と記されている。問題は入学してからである。当然ながら授業に全く付いていけなかったのだ。

 東大に、医学部に、という学校だから、学校も本人も東大の医学部入学を熱望していた。ところが、入ってみたら退学になるかならないかという成績だった。東大は大学に残さず、早く外に出すことを考えた。

 東大も無慈悲な大学ではないから、退学はさせなかった。しかし、進学させたのは、理Ⅰでも入れる(というか理Ⅲの人は見向きもしない)薬学部で、出来が悪いのを隠すために院まで残させて博士号まで付けたのである。その人は、今、製薬会社の研究所で幽霊研究員になっている。

 逆に、才能もありパーソナリティーに偏りがない人には不向きな高校だった。明らかに私より出来が良く、一橋なんて余裕と思える人が明治大学に行ったりした。極端な話、読み書き算盤に特化できるよう、パーソナリティーも偏れという高校だった。

 その高校の知られざる側面だが(書いてあるサイトもある)一種の「“グレる”状態」なのか、在学中に犯罪を犯す生徒・在任中に犯罪を犯す教師が、非常に多いのである。私をイジメた学年主任は後に校長になり、私にしたのと同様なことを部下の教師にして懲罰を食らっている(なのに、それは表に出ず、今は学校の法人理事になっている)。

 ネットストーカーは私が東大受験をしたがったという嘘を流布しているが、私は東大に行こうと思ったことは一度もない。ただ、私が教えを乞うた人が東大の方が多く、私が東大に行きたくないと言ったら、そういうバカが集まるのも東大なら、頭が良い人が集まるのも、やはり東大だと言われた。

 その高校には、今でもレベルの高い大学や医学部へ行こうという人が大挙して押し寄せている。高校在学中に「大爆発して、“グレる”状態になっている」生徒が多数だが、中には、上の東大理Ⅲ君のように間違えて(と敢えて書こう)それらの大学に入った人も多い。

 結果、東大だけでなく、私学三流校の医学部でも、適性検査(倫理)で弾かれてしまい、医学部に行っても医者になれないという事例が頻発している。東大や医学部に行きたい人たちは、入った後のことを考えずに進学してくる。あるいは、普通に入れる人は、分不相応な大学に入れますというような高校に入ってこないのかもしれない。

 20代のころ、私は、ある雑誌に「私は、この高校を退学したことを誇りに思っている」と書いたことがある。今でも私の本名で検索するとヒットするが、某大学の機関紙である。私と大学と双方からのアプローチがあり、やはり、私は、その程度の学校が相応しいのかなと思う。

 ピアノのエピソードから少し。東大理Ⅲ君の親は八木書店の書店員だった。あるいは、そういうアカデミックな仕事をしていたので、子供にはアカデミックな環境にいて欲しいと思ったのかもしれない。

 学歴ではなく経済的豊かさということに目を向けても同じことが言えるかもしれない。億万長者の下で働いていて、いつか億万長者になりたいと願う。しかし、その才覚がなければ億万長者にはなれないのだ。

 私は友人にインテリが多く、インテリは凄いなと思うが、なりたいと思ったことがない。才能もないし、なろうと努力する気もしない。自分に合った形容詞というのは、アカデミックではなく、アルカイックだと思っている。