身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

幸せの形はひとつ?

 芙蓉かもと書いてInstagram(瓜ヶ谷のアカウントではなく私の個人アカウント)にアップしたのだが、拝読しているBlogに芍薬だと書いてあって間違いだと気が付く。 

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 訪問看護を入れることになり、保健師さんが第1候補の事業者を連れてきた。あらかじめ事業者の名前を訊いてリサーチを掛けていたら評判は悪くなく、代表者に難がなければ、そこに決めちゃおう! と思っていたので即決した。保健師さんは、そんなに簡単に決めちゃっていいの? といった感じだった。だって他を探すの面倒でしょ(笑)。その足で保健師さんと共に区役所に行って手続き諸々。

 しかし、ここでふと思う。私は行政の福祉サービスを使って十数年が経つ。それ以前は、使うことに気が引けていた。存在自体を、よく知らなかったこともあるが、自分の生活に行政が介入するというのは、なにかファシズム的な匂いがしたからだ。

 実際、使ってみると、利用者の意に沿う形でサービスを提供してもらえるのだが、当然ながら住居に困っている人は公営住宅が斡旋されるし、仕事に至ってはマニュファクチャリング的なことのみが斡旋される。嫌なら自分で何とかするしかない。食うに困るという言葉があるが、たしかに、食うに困ることはない。

 ここのところ生活保護について少なからず書いているが、一連の手続きで、日本国憲法が保障する最低限度の生活は、どの程度が最低なのか、判らなくなってきた。公共住宅に住んで単純作業する人は、医療費が3割負担ということで、あるいは医療費が無料の生活保護受給者より自由に使える金は少ないかもしれない。実際、そうだと思っているのは、既述の通り。

 サイバーエージェント藤田晋さんが、たしか私が大っ嫌いな幻冬舎の本で、団地だか社宅だか同じ建物の同じ間取りの部屋に住み、同じ会社で同じ仕事をし… ということが嫌だと思ったことがエスカレーターに乗らなかった理由というようなことを書いていた。しかし、やはり、行政が考える住民の幸せって、そんなものなんだよな… などと思った。

 衣・食・住が満たされれば、はたして幸せなのだろうか。しかし、最低限度は、やはり保障してもらいたい。と、こんなことを考えてしまうのは、私が、最低限度のそれも満たされていないからかもしれない。