身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

過去は変えられない、しかし浄化できる。

 今日のエントリーは3月5日に下書きして残っていたものだ。ただ、本文は“シティポップ”なものなので全て消した。しかし、まだ転倒した腰の痛みが取れずに夜も眠れず、逆に、昼間、ウトウトして生活リズムがガタガタである。外出でもすればいいのだろうが、宅配便が来る予定になっていた。

 通販で買った商品が届いたのだが、買ったのは2品なのに1品しか入っていない。箱の中に袋が2つあって、片方は空である。これは入れ忘れだなと思って店に電話をし、その後で、もう片方の商品を開けたら、袋の中の、さらに商品の箱の中に別の商品が入っていた。判りにくいことをしないでくれ。

 

 さて、昨日は通院の日だった。週に1回の通院なのだが、その前の週、私は弁護士と2時間打ち合わせをした後、さらに色々と手続きをした後に通院となった。弁護士といっても幼馴染だから互いに手加減せず、クリニックに着いたときにはボロボロに疲れていた。

 私の主治医は、ちょっと国語力に問題がある。表現が的を得ない上に、どこが重要なのか、よく判らない。他人にその話をすると、私の国語力が高いから主治医の表現力に物足りなさを考えるのではないかと言われれたが、国語力が高い人に、これだけしか通じないとしたら、国語力が低い人には、もっと通じないはずだ。

 先週の通院は、結論しか頭に入っていないのだが、何もしなくていいと言われた。好きにしろというのならまだ判るのだが、何もしなくていいというのは、どういうことだろうか。途中で、親からも解放されたことだしと言われたことは覚えているので、少しリラックスしろという風に解釈した。

 そして昨日の通院である。私の主治医は、診察に時間をかけるときとかけないときがあって、先週は、意外と時間を取ったので、昨日は3分診療かなと思った。そうしたら意外と時間を取ってくれて(主治医の都合のようにも思えるから「くれて」という言葉を使うのは語弊がある気がする)先週の話の続きだった。

 実際に会ったとこがないから断定はできないけど、私の親は自己中心の価値観を押し付けて、違うところがあると徹底的に攻撃するでしょうというようなことを言われた。例によって私は言葉を言葉と捉えないで意味だけを抽出して覚えているから、この会話の中で覚えているのは「攻撃」という単語だけだ。

 主治医に、この前、このBlogに書いた母からの電話のことを述べて、その通りだと思うと言ったので、親が自己中心というのは、主治医の言葉というより、私の答えを投影して推測しているに過ぎない。

 それに対して、主治医は、それは発達障害的な部分もあると思うから、遺伝というか血として、私にも受け継がれている、なので、親のようにならないように意識しろというようなことを言われた。つまり、何もしなくてもいいというのは、私の勘違いだったのか、拘りを捨てろということのようだ。

 そして、拘らなくてもいいところに拘っている、たとえば過去に親にされたことに拘っていても建設的ではないでしょうというようなことを言われた。しかし、はたして親にされた事は、どうでもいいことなのだろうか。

 そんなことがあったなという程度に考えられるのなら、私は、そんなに苦しまなくて済む。しかし、それには、あまりに親にされた事は強烈すぎる。最近のエピソードから挙げると、留守宅に親が上がって荒らしていくために勤めができなかったなど、普通は体験できない。

 色んな人に言われる。過去は変えられない、他人は変えられない。しかし苦しんでいると言うと、それは今は起きえないことであると認識しろと言われる。今さら警察に行って訴えるわけにいかないだろうと言う人もいる。

 しかし、これらの苦しみから解放されるには、それが今は起きることではないと認識するだけでは、ちと弱い気がする。それらのことは今の現実では起こりえないと思うだけで済むのだったら、そのような意識の奥に潜んでいたものが頭を持ち上げたりしないはずだ。

 本当に過去から解放されるには、それが過去のことと割り切ることではなく、過去に会ったことを再認識し、その原因やルーツを探って納得することが必要ではないかと私は考える。

 拘置所にいるときも差し入れてもらった、バイブルといってもいいほど読み込んでいる私の愛読書のひとつである本に篠田節子『マエストロ』という作品がある。あとで原文と差し替えるが(TVドラマ版の台詞だったかもしれない、付箋は付けない主義の私が珍しく栞を挟んであるのだが一部しか見当たらない)主要登場人物のひとりであるヴァイオリン職人の言葉に、物に拘ったまま一生を終える人間もいる、良いものを作ろうと完成するまで神経を張り詰めるのは命を削るものというような表現が出てくる。

 作ったものに満足が行かなくて次を作るという表現も出てきて、これらは篠田先生が自分の創作についていっているのではないかと思えるが、私も、同じ気持ちだ。私の親子関係というのは、私にとっては掘り下げなくてはいけないテーマである。

 そのためには、命を削る思いをしてもいい。そして、やはり、書いても書いても満足が行くものができないだろう。実際、他に物を書いているのは、このBlogに書いているだけでは満足がいかないからだ。しかし、これは私にとって取り組まなければいけない問題であると確信している。