身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

シティポップな文学は書かない(鷺沢萠『私の話』を読んで)。

 寓居の本棚では本の前に物が山積みになっていて本が見えない。昨今、それらを整理しているのだが、しっかり鷺沢萠氏の本もあった。鷺沢萠氏だけではなく、買った覚えのない著者の本が山にある。

 著者謹呈のスリップが入っていないものばかりなので(中には入っているものもあるのだが、逆に、それらは知らない著者が裁断されるのが忍びなかったりPRの意味で送ってきたもの)版元が送ってきたのだろうが、なんとなく、思い当たる節がある。

 さる小説家が私のことを書いたのでと版元を通じて本を贈ってくれたことがある。その小説家が鷺沢萠氏と交友があり、また、以前、書いたように、私は、鷺沢萠氏が手本とする村松友視氏と面識がある。

 これらの人々の作品の傾向を、ひと言でいうと「軽妙洒脱」だろう。どうも、この手の本を私に送ってきた人たちの目論見として、私も、その波に乗せようと思ったのではないか。

 私は文体が軽妙なものが好きだ。難しいことを易しく書ける人を羨ましく思っている。また、私自身、書く上で、言葉が持つリズムというものを重視している。句読点が多いのは、そのためだ。逆に、どんな面白いことが書いてあっても、文章が難しいと読む気がしない。

 問題は、中身も軽妙なことだ。他方、このBlogのディスクリプションにも書いているように、私が目指すのは「硬派」なものだ。硬派といっても駄目な私が書くのだから難しくなく、このBlogをお読みになっている方には失礼な言い方だが、インテリでなくても何か考える、そんなものが書きたいと思う。

 小説に描写された時期、私は学生で、生家である麻布の仙台坂上の江戸時代に建った家に住んでいた。先日、閉店した青山ブックセンター六本木店は午前2時まで営業していたので、眠れないとパジャマの上にガウンを羽織っただけで立ち読みに行ったりしていた。

 当時の青山ブックセンター六本木店のラインナップを見てもらえれば判るのだが、そんな生活をしていたからといって私は素行不良な生活をしていたわけではない。終電過ぎまでディスコで踊りまくっている奴と同店内で顔を合わせたことはない。だいたいは私が通っていた専門学校の同級生か外国人講師だ(洋書も丸善なみにあった)。私を含めた神田外語の学生・講師の名誉のために書いておくと、ブル下がりの女の子がいるような学校ではない。

 夜中にパジャマで六本木に来ているし文体が軽いからといって、私は現代版「なんクリ」みたいなものは書きたくもないし書けない。しかし、つまるところ私は村松友視・鷺沢萠を始めとする各氏を田中康夫氏と同じ“括り”に入れて避けていたわけだ。そう考えると、村松友視氏が私に素っ気なくしているのも、なんとなく頷ける(体重が倍増したので認識できないとも思えるが)。

 この括りから彼らを外した理由は雑誌に書いたことがある(以前、スキャンしてアップしたことがあるので、データが見付かったら貼り付けます)。今、Webで検索を掛けてみたら2004年夏季号とのことで、15年前、私が32歳のときの文章だ。内容もさることながら、ちょっとアカデミックな雑誌だったので、文章を逆に難しくしてもいるので、読み直すと恥ずかしい。

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 今回の鷺沢萠マイブームも、発端は『私の話』という著作だった。リアルタイムで本を貰ったときはチャラいと思っていたのに、それで認識が変わった(Amazonへのリンクを貼っておきましたが、刷りすぎて古書市場で供給過剰なので、ブックオフででも買ってください)。村松友視氏にしても鷺沢萠氏にしても、彼らを見直したのは私小説を読んでからだ。 

私の話 (河出文庫)

私の話 (河出文庫)

 

 

 私にポップなものを書かせようとした人たちがいたときは、絶対に物なんて書くものかと思っていたのだが、サラリーマンも駄目だった私は、その理由も含めって、自分のことを書くしかないのかなと思っている。

 都会派だけど、ポップではなく硬派なもの、そんなものを書きたい… って、40枚くらいのところで止まっているのだけど。私は、小学校時代、国語の授業で作文が1文字も書けなかった。今になると母親に読まれることでビビッていたのだけど、書く訓練はしておくものだ。