身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

なんで疲れても生きているんだろう。

 冒頭のタイトルは何か適切でないが、今日はボロボロに疲れて寝ていた。昨日、渋谷駅から東急ハンズまで歩いて行っただけである。少し前までは東急ハンズのスパイラル状の階段を7階まで上って、それから家まで歩いて帰っていたというのに。

 書くといって書かなかった気がするが、先々週の通院のとき、主治医に、こういうことを言われた。本当は直後に書こうかと思ったのだけど、ネットストーカーが面倒で、適当に話を削ぎ落そうと思っているうちに時間が経ってしまった。まぁ、記憶を頼りに書くのだから、削ぎ落すまでもあるまい。

 訪問看護認知行動療法を試してもらっている。そのときは、ある物を買ったという事実についての認知の仕方についてだったが、そのとき私が何を思ったかというと、「何か言われる」だった。訪問看護に、別に我々は何も言いませんよと言われ、そうか、何かを言う主語は父親かなと思った。

 主治医に、その話をすると、心理学的にいうと、内在化した父親ということになり、あり得る話ではあるけれど、実際には父親が生き返って文句を言うなんてことはあり得ない、明日、隕石が降ってくるという恐怖の方が、まだあり得ると言う。

 そして、たとえばトイレに行くとするとすると、放尿というプラス面もあるし時間を使ったというマイナス面もあって、物事には何事にもプラス面とマイナス面があるということを認知しておくと自分の中で稟議を通せると言う。今までと違う物の見方ができると、価値基準が色んな意味で変化してくると言う。

 2週間も経っており、この辺のことは、あまり覚えていない。途中、新型コロナウイルス感染症ワクチンの話になり(私の主治医は反対派)、ワクチンを打った、あるいは打つことを推奨しているということで、いかに周囲の医師がワクチンを打つといいことがあるということに拘泥しているかという話が出た。ここだけ触れるのは、ブログ友達、星香典さんの連載小説「アフター・ワクチン」が完結したから。

 ワクチンを打った、父親に何かされたというところで自分を規定しないことが大事だと言いたかったのが一番だと思う。「父親に何かされたウリガヤツフミヒコ」ではなく、「父親に何かされたけど立ち直ったウリガヤツフミヒコ」の方が格好イイじゃん、というような話も出た(関東の人ではないので、そういう話し方ではないけど)。

 以降、話は私の生き方についてになり、毎日、自殺のことばかりを考えているわけではないし、調子がいいときもある。せっかくここまで生き延びてきたんだから、もっと良い人生にしてやるみたいに思ってくれたらいいなと思いますと言われた。

 私は目先のことで頭が一杯になりやすいけど、自分の人生を、どうしたらいいのか考えられるといいなぁとも言われた。物を書くのも1つだけど、自分の柱となるものが見付かるといいなぁと思いますと言って話は終わりになった。そうそう、唐突に前任の主治医の話が出てきて、彼はアスペ度が高いからねと言っていた。前任の主治医が私に何を言っていたのかは私と主治医(と前任の主治医)しか知らないので端折る。

 そう考えると、たとえ疲れて、こんな人生が嫌だと思って死なないのは、まだ未来(将来という歳でもあるまい)に希望を捨てていないからだと思う。人間として生まれたからには、幸福の追求こそが人生の醍醐味であり、まだまだ、それをしようとしている自分がいる。