身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

選手として。

 …なんか、「身の上話」ではなく「闘病記」みたいになってきてしまって、このBlogの目的である、原因を突き詰めていこうというのとは別の方向に行ってしまっている。文学とも遠ざかっている気がする。

 

 迂闊というか朦朧としているというか、ここのところ、思うとおりに行動できていない。このBlogの文章にしてもそうだが、既述のようにガスファンヒーターを付けっぱなしで寝てしまったり、水を盛大に床にぶちまけてしまったり。まだキーボードで打っている文章はいいが、紙にペンや鉛筆で書く文章など、文字すら判らなくなるときがある。

 この前、障害を犯罪の免罪符にしたくないというエントリーをアップしたが、私は、都合よく何かに便乗して楽をするのが嫌だ。できるだけ自分の足で立ちたいと思っている。なので、他人ではなく自分をラベリングして、ぬるま湯のように、それに甘んじていたくはない。これは私のモットー「駄目なら駄目なりに頑張る」に通じる。才能がなければ努力しなくていいとは思わない。

 しかし例えばスポーツ選手にもコーチがいるように、やはり“シュリンク”の存在は必要だ。ただ、症状を訴えて、しかも心不全で運ばれても「ゴロゴロしたいための言い訳」というような医師は要らない。そして、それを不当だというと「痛いところを突かれて医者を変えるなど言語道断」という両親も要らない。

 かといって、辛かったですねといって甘やかす医者も、どうかと思う。実は、ここのところの恐怖の原因をネットで検索していたら、かつて私を診察拒否した医師が、私のような人をラベリングし正当化しているのを見て、なんか違うなと思った。正当化するだけで回復するのかと思う。この医師はラベル(レッテル)が好きらしく、アメリカから引っ張ってきた新たな用語を紹介しては本を出している。診療拒否という行動といい、業績の他人のものばかりで、自分にも他人にも甘いような気がする。

 選手から見ると、努力しているなんて嘘だろうと言うのも、どうせ勝てないんだから努力しなくていいと言うのも、やはりコーチとして失格だと思う。選手の努力を認めて、そして改善点を指摘する、それがコーチの正しい在り方ではないのか。しかし、自分自身を選手として見たとき、最近、ちょっと全力が出し切れていない感じがする。頑張っているつもりだが、“つもり”ではいけないと思うし、全力を出さずにコーチに頼るのも、どうかと思う。常に前向きに努力することを肝に銘じたい。

 

P.S. こじんまりとまとめたけど、ちょっとエントリーにするほどでもない薄い内容になってしまいました。些細なこと(Blogに書くのは少し憚られることも)はSNSで発信しています。私のプロフィールページからご覧ください。