身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

読み手がいない文章は言葉ですらない。

 今日は午後4時まで起きられなかった。そして午後11時には自分がやっていることが判らなくなり、1日のうちに活動できている時間は、だんだんと少なくなって5・6時間程度になっている。この時間には家事や入浴や、していないけれど通勤や、そういう諸々が含まれる。それらの時間も捻出できていない。

 もう何ヶ月も満足が行くものが書けていない。アクセスログを見ても読者に対する済まない気持ちや自分への情けない気持ちしか湧かないので見なくなった。それどころかSNSも見ている時間がない。Facebookなど1日に1度見るのがやっとで、Twitterなど、さらに見ないし、それぞれの瓜ヶ谷のアカウントなど、なおさら見ていられない。

 昨日も、何を書いているのか判らなくなり、それどころか書いたのか書いていないのかも判らなくなり、なぜURLが競合するのだろうと思ったら、すでに記事をアップしていたという事態が起きていた。しかも、まったく覚えていないが高価な買い物をしていることを、買ったものが届いて初めて判った。

 書けないというと、書かなくていいんですよ、読む人なんていなくていいんですよ、自己満足でいいんですよなどと言う人がいる、というか、多い。いつも思うのだが、こういう人はオリンピック選手に会ったら、競技なんて辞めちゃえばいいんですよ、記録なんていいから遊んでればいいんですよと言うのだろうか。

 何度も書いているが、私がこのBlogを書く理由というのは、自分のことを相手に伝えるためであり、書くことは考えること、すなわち、起こっている事象の原因の究明などの側面も持っている。他人に誠実である以前に、最低限、自分にだけは誠実な文章を書きたい。少なくとも落書きをして楽しんでいる訳ではない。

 今も、ほとんど失いそうな意識で机に向かっている。誤字脱字どころか“てにをは”を間違えないように努めるだけで精一杯だ。これだけで命を削るような思いをしているのに、そんなことをしなくていい、便所に落書きをしていればいいなどというのは、なかなか失礼な言い分だと思う。

 私にとって書くことはマスターベーションではないし、自分のマスターベーションを人に見せて気持ちがいいという感覚も持ち合わせていない。少なくとも私は、自分の満足が行かない文章を他人に読ませることに対し、かなり不本意だ。そして、言葉とは他人に伝えるためのものだと思っているので、読む人がいなくてもいいとは決して思わない。