身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

成績が良い子は「バイバイ」と言えない(鷺沢萠『バイバイ』を読んで)。

 以前、アップした「他人に嫌われるのを異様に恐れる理由。」に関して、続きのようなものを書きたい。

バイバイ (角川文庫)

 

 今回は長い引用が続くが、毎回、書いているように、作品の一部分を切り出すと、作品の魅力を損なって作品を汚している気分になる。なので、より多くの部分を抜き出したくなる。どうか勘弁してほしい。

 主人公は名を峰沢勝利という。

 勝利の誕生日は昭和40年4月20日なっているが、ほんとうに生まれたのはそれよりもひと月以上も前である3月15日なのだという。勝利が生まれたとき父親はそばにはいなかった。せめて出生届くらいは父親に出してもらおうという親心で母が父に託したそれを、酒に酔っていた父は出し忘れ、そのままひと月経ってしまったらしい。つまるところそういうふうな人間なのだ。

 勝利は、本来よりは学年が1つ上なのだからと、小学校で先生に褒められても「不正な利益を得ているような感じがした。」そして、勝利は、「自分で不正をバラしそうで怖」くて親友を作れない。

 しかし、両親が離婚し、母方の親戚に預けられた「厄介者」の勝利は「嫌われてしまったら住む場所の保証さえ危うい」ので「常に『人の好意』を意識して暮らすようになった。」

 そして田舎の学校で「東京弁を話す余所者」で「勉強ができる子」になったが、不正を犯していることに対する罪悪感を覚えることもなくなる。「自分は嘘をついている。」そんなときに勝利は祖父に「他人を信じるな」と言われる。他人を信じることは灰皿を食べるようなものだと言われる。

 頭の骨のどこかが割れてそこからパーッと光が射してきたみたいに、勝利は祖父の言葉の意味を理解した。

 灰皿が食べられないように、人間は信じられないものなのだ。灰皿を食べようとしている人がいたら、誰もがその人は気が違っていると考えるだろう。それと同じように、人を信じようとすること自体が狂気の沙汰なのだ。

 なぜなら、もともと人間は信じる対象として適していないものだから---。

 人の心は変わるのがあたり前だ。自分勝手であたり前だ。それは責められるべきことではなく、もともとそういうふうにできているのだ。

 そうして人として生まれたなら、必ずそのことに気付くはずだ。ならばそれを信じよう、信じたいと思うこと自体が変だ。

 これは、勝利が他人の顔色を窺うあまり約束を破ることができなくなり、やがては嘘を付くことにも抵抗がなくなる伏線なのだが、原作を冒涜するだけではなくネタバレにもなる(半ばバラしちゃってるけど)ので、ここから先は原作を読んでもらいたい。

 国産車の中古車販売センターには約5年間勤めた。売り上げ成績は常にトップに近かった。

 当然だ、と思っていた。俺は努力をしている。その「努力」は「車を売るための努力」というよりも「他人に嫌われないための努力」により近かったが、このふたつは確実に同じ方向のベクトルを持っていた。

 

 

 さて、私が覚えている、もっとも古い母の言葉は「子は鎹(かすがい)なんて嘘よ」というものだ。小さいときのことだから「鎹」などという言葉の意味は判らなかっただろう。しかし、私は、その言葉を鮮明に覚えている。

 父は私が生まれた日、徹麻(徹夜マージャン)していたという。また、まだ週休2日制が導入されていなかったにせよ、私が物心ついてからも、父と一緒に食卓を囲んだ思い出というのは、昔からないのか忘れたのか、薄い。

 子供のころ、「お前のカァちゃんキチガイ!」と言って、同級生に、よく虐められた。他方、私が両親のことを話しても、それがあまりに奇異な話なので、それは虚言癖と言われ、また虐められた。まぁ、子供のことだから虐める大義が欲しかったのだろうと思う。

 しかし、この作品を読んで、私が真実を話しているのに「虚言癖」と言われる虚の部分を見付けたような気がする。冒頭で挙げたエントリーのようにファシズムともいえる親の支配下にいた私は、まさに親に嫌われたら住む場所さえ危うく、親の好意を得ることに必死だったのだ。

 この作品を読んで、ずっと自分が良い成績をキープしていたことも、親友といえる友人がいないことも納得が行った。他人を信じるなと直截的に言われたわけではないが、両親には、他人に大切なものを貸してはいけないと育てられた。

 父親も、死ぬまで私を信じていなかったと思う。私が努力するとは信じず、病気で動けなくなっても甘ったれていると言って殴る蹴るし、110番までした。嫌われるぞ! と怒鳴ったことも、あるいは、これを無意識のうちに実行していたのかもしれない。

 私は、他人に嫌われるのが怖くて自分というものが持てず、その後の人生は他人に左右されて滅茶苦茶になるわけだが、やはり、根底にあるのは自分は余所者というか余計者という意識だ。「バイバイ」と言ったら自分の人生が終わる… 成績が良かったのは、そんな思いからかもしれない。