身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

思いやれない自分を恥じること。

 おととい書いたが、薬が変わって体調が悪い。今朝も早朝に恐怖に襲われて目が覚めたが、それ以降、一向に休まらずに消耗していた。今日は、何とかしなければ耐えられないと思い、病院に駆け込んだ。

 以前、「精神障害者がヘルプマークを持つこと。」というエントリーをアップしたが、今日も似たことが起きた。バスに乗ってから初めて財布を忘れたことに気が付くほどで、本当に今日の自分は、どうしようもない精神状態だと思った。

 目の前に座っている人に、ヘルプマークを見せ事情を話し、席を譲ってくれと頼んだ。そうしたら、ヘルプマークを見ながら、そんなもの知らねぇよと言われた。周囲の乗客も知らんぷり。

 診療が終わって命からがらといった態で薬局に行き、財布を忘れたことを話したら、薬剤師が次回でいいですよと言ってくれたので薬を受け取れたものの、事務員には、お金がないと薬は渡せませんと言われた。ちなみに毎週、来ていて、薬代は、毎回40円だ。

 不貞腐れるというほどではないが、世知辛い世の中だな… とは腹を立てていた。そして、帰りのバスに乗った。正直、バスに乗ることで、また嫌な思いをしたくはなかったが、歩けないし、タクシーに乗る金もないのだ。

 肉体的にも精神的にも辛くて、かなり苛々していた。始発からバスに乗り、次の停留所までは数百メートルである。それなのにバスの降車ボタンが押されて、早く帰りたい私は、チッと思った。

 しかし、実際に降りる乗客を見たら、大きなスーツケースに鞄を2個も持っている。空港帰りで疲れているようにも見える。そうでもなければ待って金を払ってまでバスに乗らないよな…。そして、そんなことを思いやれない自分を恥じた。私も辛いからバスに乗ったのだ。

 

 そして、ふと思い出したことがある。もう1年くらい前のことだが、私は地下鉄に乗っていた。そのときは体調が悪くはなかったので、ヘルプマークも、わざと見えにくくして立っていた。

 そうしたら、いきなり、目の前に座っているご婦人に謝られた。平身低頭して私に席を譲り、穴があったら入りたいというような有様で他の車両に移って行った。私は、逆に不要に席を譲られて、なんか後味が悪かった。

 しかし、バスで、数百メートルしか乗るなよと不覚にも思った私の恥ずかしさを思うと、ヘルプマークを付けている人に席を譲らなかった自分を恥じる、そのご婦人の気持ちが、痛いほど解るのだ。

 

 私も、前述のように色々と腹を立てていた人間だ。空いている席があったら率先して座るし、飲食店で同じような思いをしたら、2度と同じ店には行かない。自分の了見の狭さは自覚している。

 自分が、そのような人間だからか、世知辛い世の中だなと腹は立てるものの、あまり個人に対しては根に持たない(そのときはムカッと来ますが)。しかし、世の中のせいにしてしまうのは問題があるなと、今回は思った。

 個人の優しさに鈍になり、地下鉄で席を譲ってくれたご婦人が、なぜそんなに恥ずかしがるのか解らなかったからだ。世の中のせいにすることで、優しくないことを正当化してしまっていることが問題だと思った。

 私は別に、他人に優しい世の中にしたいなどと大それた思いはない。むしろ、世の中を良くしたい思いで他人に親切にする人には偽善めいたものを感じる。そう感じるのは、私に、理由はいかんであっても他人に優しくという道徳観が欠けているのだろう。

 どこかの小学校に、他人の嫌がることを率先してやりましょうと書いてあって、それは嫌がらせをしろということなのかと思った。そんな私でも、優しくできなくて恥ずかしいと思う気持ちは解るのだ。

 別に、責務感で他人に親切にする人を否定しているわけではない。何度も書くが、そう思わないのは自分自身の道徳心が足りないからだと思っている。しかし、そんな私でも、親切にできなくて恥ずかしいと思う気持ちは理解できるし、せめて、そんな気持ちくらいは大切にしたいと思うのだ。

 

P.S. 昨日、書いたように、明日は友人のライブで、ついでに吉祥寺に住む作家先生のところに寄ってきます。まだ、自分を嫌っているのではないかと思う人に会いに行くのは気が進みません。嫌々、来られる方も迷惑だろうなと思います。どう転ぶか判りませんが、その後の友人のライブで気分転換してきます。明日、直近に書いたエントリーがアップできないのは、ご容赦ください。