身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

他人の嫌がることを進んでやりましょう。

 以前、友人が小学生の子供の授業参観に行ったら教室に貼ってあった言葉だそうだ。だったら率先してイジメをしろという風にも取れるし、おそらく、そういう意図で書かれたであろう他人がやるのに躊躇することをしろという意味でも、あまりよい教育ではないなと言っていた。

 こんなことを思い出したのは、家に帰ってネットを見ると相変わらずネットストーカーが「嫌がらせを進んでやっている」からでもあるのだが、それ以上に、今日、実家からの帰りの電車の中で、あまりにも「他人の役に立つことを進んでする」人間が少なくて驚いたからだ。

 今日、私は、朝から胸が痛んで、帰るときにはボロボロに疲れていた。幸い、電車では座れたのだが、立っている老人がいて、譲れなくて居心地が悪かった。やっと座席が空いたと思ったら20歳代の男性が猪突猛進して座席を取り、スマートフォンでゲームをやりだした。

 私のネットストーカーのように6年間もストーカー活動をしているのを自慢する変質者は別として、普通の人間は、他人の役に立ちたいという思いがあるはずだ。だったら老人に席を譲ることは譲る人が嫌がる行為ではない。それができない理由としては、譲りたいのは山々だが疲れているから許してくれといったところだろうか。

 しかし、スマートフォンでゲームをしたいというのは、疲れているというのと、ちょっと理由が違うような気がする。立つのは苦痛かもしれないが、ゲームができないというのは苦痛ではないと思うからだ。

 席を譲れなくて、私は物凄く心苦しかった。結局、30歳代のOLさんが席を譲ってホッとしたのだが、老人から席を譲った20歳代男性は、平然とゲームをやり続けているどころか周囲にも迷惑を掛け始めた。男性は大学生風のカジュアルな格好をしていて、絶対にスーツを着ているOLさんより恰好からして余力がある。

 初老の男性たちが我々は教育を間違えたのかと話していたが、「他人の嫌がることを進んでやりましょう」と言っていたのでは、たしかに、それは間違えた教育だと思う。他人の役に立つことの喜びを教えるのが、正しい教育ではないか。苦痛でないのなら他人の役に立つことをしても損はないと思えるような教育。

 高校生の教科書では鷺沢萠著「『私』という『自分』」が掲載されているという。国語教育としては高校生レベルの文章かもしれないが、その気持ちは、もっと若くに教えて欲しい。しかし、優れた文学者による、なぜ他人の役に立つことをしたいのかという文章を読んでほしく、以前も取り上げたが、ここに教材のPDFファイルを再掲する。

https://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/radio/r2_genbun/archive/2015_genbun_03_04.pdf