身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

理解を深めるには知識を増やせばいいというものでもない。

 肘が痛い。理由は簡単で手術をしたからだ。数日前から肘が腫れていたのだが、今日、訪問看護師に、それを言うと、膿が溜まっていて全身に回ると何とかという病気になるので急いで医者に行って抜いてもらった方がいいと言う。

 で、休日なのだが救急車で入りはしないものの急いで救急病院へ。医者も、その看護師と同じ考えで、注射器で液体を抜く。しかし、抜いたものが膿ではなく、判断に困っていると言う。その医師は救急科なので、そもそも何科に回していいのか判断できないという。結局は袋ごと切開して除去した。

 腫れているというところまでFacebookに投稿したら、友人から、それは「ガングリオン」じゃないかというコメントが付いて、調べてみたら、たぶん、それだ。しかし、看護師も医師も、知識がなかったわけではあるまい。2人揃ってである。

 私も先日、英文を訳していて、"lap"という単語が訳せなくて慌てた。そのときの用法は、単純に「膝」だった。他人に訊いて、答えを聞いて恥ずかしいと言ったら、知らないことを聞くのは恥ずかしいことではないと言われた。しかし、知らないことではない。その単語が使われる「ラップトップコンピューター」は言葉も意味も知っている。

 そして、帰りのバスでのこと。老人が立っていて、近くに座っていた乗客が席を譲ろうとした。そうしたら、老人の傍にいた若者が、譲らなくていいんですと言う。最近は、他人の善意を否定する若者もいるからなと腹を立てていたら、なんと、その若者は老人の連れであった。

 これらのことを考えると、理解できないのは知識がないからとは一概に言えない。いちばん最後の例は単に私の早とちりであるが、持っている知識に辿り着けないのは、早とちりと同じ類のものに思える。頭でっかちとは少し違うが、知識の多さが理解を深めることに直結しないのだと実感した1日だった。