身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

「私の話 2022」草稿1

※書きかけです。まっさらにして、また書きます。

 

 東京は春分を過ぎ、先日、番狂わせの雪が降ったが暖かい日が続いている。しかし自律神経が狂っているのか、身体は温度を感じず寒気がする。逆に雪が降った日は寒さを感じず、上着も着ずに家を飛び出して喫茶店に飛び込んだ。

 昨日、母が住む松戸市地域包括支援センターから電話があり、母が長くないと言う。持って一週間というところらしく、父が死んだときもやりましたよね、葬儀の手配などできますよねと言う。

 

 昨日は私の通院日だった。通院先の精神科では、もう外来では対応しきれないと入院を勧告されていた。手に嵌めたスマートウォッチを見ると、かつてないほど熟睡しているのに、朝、起きたときから憔悴し切っていた。しかし、起きた瞬間から不安と恐怖に襲われ、疲れが取れることはなかった。ストレスで過食しているのに体重も減っている。

 死にたいと思った。今まで、苦しくて死にたいという思いは現在も含め何度もしているが、純粋に死にたいと思った。本当に疲労で死にたくなるのだなと、五十歳にして初めて実感した。主治医曰く、原因は母の行動にあるとのことだった。三年前に父が死んで母は独り暮らしをしているが、それから問題に次ぐ問題を起こし続けていた。

 数週間前のことだった。地域包括支援センターから電話があり、市の職員から話があるから松戸まで来てくれと言う。何の話かは、そのときに話すと言う。その電話が来た夜、私は逆に一睡もできなかった。肌も地腫れがして痒い。翌日、私は主治医に電話を入れ、かくかくしかじかで眠ることができない、ついては大昔に処方されたヒルナミンを服んで良いかと尋ねた。

 そうしたら主治医には私に先んじて松戸市から連絡が入っていたそうで、いきなり

医療保護入院が必要だとのことで」

 と言われた。父が死んで三年、母が無茶苦茶なことをしているのは私も知るところである。主治医は、松戸市から、私のストレスになりそうだが本人に依頼して良いのかと訊かれたと言う。

 家族はあなた一人しかいないのだから必要なことはするしかないし、父が死んだときも遺産相続などに動くことができたので、その経験を活かしてやっていくということは、あなたの人生にも意味のある経験になるのではないか、嫌な思いをしても頼るしかないというアンビバレントな心情を整理する上でも意味があるのではないと思っておりますので、頑張ってやっていただきたい。

 主治医は、珍しくシャキッとした口調でそう言った。そして主治医の許可を取り朝からヒルナミンを服み、しかし、それでも気分が収まらずに私の担当保健師に手紙を書いた。そして、昼過ぎにやっと少し眠ることができた。

 もともと事務職であった私には、相続のことなど容易いことである。しかし私は母のことになると冷静でいられない。私が子供のときに両親にされていたことを主治医は虐待と呼ぶが、普通の虐待とは、かなり理由が違う。今でも母が起こす問題行動のターゲットになっていたのだ。

 もっとも、普通の虐待に近いこともあった。物心ついたときから母は私を意のままに殴る蹴るしていた。そして、父が仕事から帰ってくると父に私のことを告げ口し、父も私に殴る蹴るをした。

 それだけなら、ありきたりの話であるが、私が、その手を振り払っただけで家庭内暴力だといって百十番し、起こしてもいない私の非行を告げ口し、警察官まで味方に付けた。警察官は私の言うことは信じず両親の言うことだけを信じ、最終的には一緒になって私を殴るようになった。

 後に私が成人し、両親と連絡が付かないので警察に安否確認を依頼したことがあったが、両親は、警察官が来たというだけで近所の体裁が悪いといって私を責めた。そんな両親が、わざわざパトカーにサイレンを鳴らして家に来させたのは、私が不良息子であると近所に印象付けるためだ。

 それから父は、何かにつけ、警察を呼ぶぞと私を威嚇するようになった。この恐怖は私の奥深くまで刷り込まれていたようで、私が四十歳のときでさえ、父が私の部屋を荒らしていったのを咎めたとき、逆に警察を呼ぶぞと言われ、たじろいだ。

 そのころ、私は母が見付けてきた茨城県にある新興の私立高校に特待生として通っていた。しかし、高校では、生徒ではなく学年主任だった教師からの虐めに遭い、授業には出してもらえず、一日中、廊下に正座させられていた。しかも、特待生は趣味も勉強でなくてはいけないと言われ、部活の時間も教室に軟禁され自習の時間があった。

 授業に出してもらえない私は、自習をしようにも何をしていいのか判らず、落ちこぼれるだけではなく精神を病んで身体が動かなくなった。そんな私を、六十歳で定年退職して一日中、家にいる父親は、怠けているといって殴る蹴るをし、ちょっとでも口答えをすると百十番した。

 身体が動かなくなるどころか何も話すことができず、警察官に何か言われても説得力がある回答ができず、何もできない私を前に両親は勝手にストーリーを作り、私は警察官にも近所にも、一端の不良息子にされていた。

 後にインターネット時代になり、校長になった学年主任が私にしたのと同様に、気に食わない教師を即時クビにし行政処分を受けているのを知った。そして、そのときクビになった教師の告発文に、何人もの生徒が自殺に追い込まれていると書かれているのを知った。

 当時、学年主任のことをは担任に訴えたが、担任は、上司に楯突くことなど、とてもできないと言った。担任は、後に作られた中等部の校長か何かになったようで、利口に立ち回ったことになるのだろうが、生徒よりも保身の方が大切なのかと鼻白んだ。

 似たもの同士、引き寄せ合うのか、母は母で、特待生に誘われたときから高校に熱狂的になっていて、学費だけでなくPTA会費も無料にするから、ぜひ来てくださいと頭を下げられたのよ、しかも放課後も補修があるから予備校に行かなくてもいいんですって、そのうえ東大に入れてみせますと言われたのよと熱に浮かされたようになっていた。

 私は勉強が好きで、小学校時代、同級生の付き合いで受けた四谷大塚に自分だけ受かって通っていたが、それなら大学から行けばいいと言われるレベルの中学校にしか受かる成績でしかなかったし、そもそも、高校にしたって今まで一人しか東大合格者を出していないのだ。

 両親の言うことに根拠がないのは昔からだった。母に関する最も古い記憶は小学校低学年頃のものだ。私は、夏は四十度を超える自室に監禁されていた。母は定期的に様子を見に来て、私が机に向かっていないと殴る蹴るした。

 そして、私がトイレに頻繁に行くのは水を飲むせいだといって水を与えられなかった。あまりに昔のことなので覚えていないが、私は何度も倒れたらしい。後に知人に、私は貧弱だから簡単に倒れるのに医者に連れて行って点滴を打てば治ってしまうと言っていたそうなので、熱中症だったのだろう。

 私には友達がいない。子供のときから部屋に監禁されていただけでなく、ツルむのは不良の始まりだといって誰とも交友させてもらえなかった。友達ができると、母は、その友達に徹底的に嫌がらせをした。そして、私は、お前の母ちゃんキチガイと虐められる虐められっ子になった。

 母は同時に、私が駄目だから友達が離れていくのだ、私が変だから自分がキチガイ扱いされるのだと私を責めた。私は両親の狭い背化に閉じ込められ、常に自分を責めていた。自分なんか死ねばいいのに…… その思いは、このころ芽生えたのかもしれない。

 高校に入学した年、両親は入学祝といって私の貯まったお年玉でステレオセットを買った。しかし、それで音楽を聴こうにも、ステレオセットに手を伸ばそうとしただけで殴る蹴るされ警察を呼ばれた。結局、そのステレオセットは音楽をほとんど奏でることなく私に無断で破棄された。

 最終的に、私は市川にある国立の精神病院に連れて行かれた。すぐに両親から話さないと死んでしまうと言われ、即日入院となった。母は、どうして精神病みになんてなってしまったのと、わざとらしくヨヨと泣いた。私は高校も退学し、病院から大検を取りに行った。

 大検は高校を退学しないと受験できない。高校に慰留されて三年まで籍を置かされたので、大検を取ったときは一浪した人と同い年になっていた。しかし、高校三年のときから入院していたので、今になってみると二年間も入院していたことになる。

 病院では少しでも情動が動くと注射で眠らされる日々だった。東大卒が自慢の医者には中学校の英語のドリルをやらされた。きっと、私が英語が苦手だと親が言ったからであろうが、一発で大検を取っているのに中学の勉強をさせるというのも馬鹿にした話だなと思った。

 辛い時代の記憶はないというが、私には、このころの記憶だけでなく、サラリーマン時代も含め、ほとんどの時代の記憶がない。会社を辞めて二十年が経つのに、その二十年の記憶も、ほとんどない。

 この頃のことで、唯一、覚えているのは成人式のことだ。私は退院し、実家に戻っていた。そして、久しぶりに監禁されている自室を出ることができると成人式の招待状を心待ちにしていた。しかし、それは、待てど暮らせど来ることがなかった。それなのに母親は後に、私に向かって、いい成人式だったんですってと言った。

 普通に高校を卒業したら二浪目に当たる年、私は高校の同級生の勧めで代々木にある英語に特化した無認可の予備校に通った。これも、ほとんど親が決めたようなもので、鷺沢萠の通俗小説に出てくるような若者が屯していた。前年、病院から通った駿台予備校が懐かしかった。

 英語に特化したといっても、英語の、どこが判らないかも判らない状態で、予備校に通っている間も、高校で正座させられている時間と、さほど変わらなかった。そして、家に帰ると、不良扱いして殴る蹴るはされなくなったが、キチガイ扱いして腫れ物に触るように接する両親。

 その年が終わり、私は一流の大学を避けて二流の大学を三つほど受けた。結果は全て落ちた。選考結果を通知してくる大学もあったが、学力以外の理由によると書かれていた。そんな高校時代を送っていて、内申書の成績が良いはずがない。しかも、私が通っていた高校は、内申書にも定期テストの成績を記すことになっていた。

 私は就職すると言った。そうすると、お前に勤まる会社があるはずがないと、また両親が猛反対した。これでは、一生、座敷牢に閉じ込められたままだ。そう思った私は、唯一の親戚で、麻布に住む母の弟の叔父を頼った。

 叔父は、私に、ぜひ学生生活を謳歌させてやりたいと言った。私は併設の大学へ三年時に編入できる専門学校を見付け、最終選考の最終日に願書を出した。叔父は、どうせ受かるまいと言った。父は、受かったら大学までの学費を出してやると言った。

 英語の専門学校だったが、面接試験もあり、なんとなく自信はあった。結果、私は上位の成績で合格した。父は、学費の借用書を書けと言うので、私は金幾らなりという普通の借用書を書いたが、今までの「悪事」を詫びて懇願する作文を書けと言う。

 専門学校では、いきなり良いクラスに入れられ、最初はノートの取り方も判らず隣の席の女の子に ノートを借りた。それが、本来の勉強好きもあり、卒業時には、ほとんどが優で、中には秀も混じる成績になっていた。

 麻布の家は、ならず者の叔父のせいで荒廃し果てていた。ガス器具には使用禁止の封印が貼られ、料理は卓上ガスコンロでしなければならなかった。内風呂も使えなくて銭湯通いだったが、勉強が楽しくて、それも苦にならなかった。

 叔父は失業中だったが家に寄りつかなかった。母の話だと高校時代から学費を賭け事に使ってしまったり、祖母が死んだ後は生命保険を解約して飲み歩いたりして、さながらホームレスのような生活をしていたそうである。

 そして、私が居候を始めてからも、今日はビジネスマン風などと言って、背広を着て出掛けて行っては、数日、帰ってこないこともあった。しかし、私は叔父がいない分、朝から晩まで一人で勉強することができた。

 ある日、専門学校から帰ってきたら珍しく叔父がいて、私に向かって警察が来たと言った。東京では数年に一度、台帳を持って警察官が住人の確認に来る。どうも、それのようだった。叔父は、私のように怪しい奴がいるから警察が来るのだと言ったが、私は叔父の思い過ごしだろうと放っておいた。

 それが思い過ごしでないと悟ったのは、大学に編入するときだった。私は、専門学校に普通に進学の届けを出して、大学への編入を届け出た。しかし、期日になっても学費は振り込まれなかったのだ。

 原因は叔父だった。やはり血は争えないものだ。

「俺がいつも隠れて様子を見に来ると、朝から晩まで机に向かっているじゃないか! 勉強なんて嫌いなものに決まっているから机に向かっているということはボーッとしているに決まっている! アルバイトをして遊べと言うのに、一向に遊ぼうともしない、そんなのは覇気がないということだ」

 私が通っていた専門学校は、保護者には保護者向けの成績表が送付されている。そんなものは自分たちの思い込みの前には無力なのだ。実際、その後、叔父の家も追い出されたとき、叔父は、その成績表を見て「お前、こんなに成績が良かったのか」と言った。