身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私の話 Part 3

 今、私は松戸市小金原にある実家にいる。1週間ほど前から、急に、朝、起きられなくなり、環境を変えようと思ったのが一因である。実家に来る前にクリニックの定期通院があったのだが、主治医に実家に行くと告げると、主治医は、変なの、という感じで体調が悪くなるんじゃないの? と言った。父が死んでから、母には、いろいろと嫌な思いをさせられた。

 今回の「私の話」は、前回から時系列を追っている書き方ではなくなってしまうが、書かなければという差し迫った気持ちから書いている。しかし、まともなPCもないので、誤字脱字・話の重複などがあるかもしれない。

 

 実家に来て、朝、起きられるようなったかというと、そんなことはなく、今朝も普通の時間に目が覚めたのに再び意識を失ってしまった。私は、会社勤めこそしていないものの(というか精神障害でできない)夜は午後11時に寝て朝は午前7時に起きる生活をしている。それでも、サラリーマンに比べて長時間寝て申し訳ないと思っている。

 私は、精神障害者施設で見た、生活保護を受けて怠惰に過ごしている人たちを、あまり快く思っていない。人生の最大の楽しみはゴロゴロしてTVを観ることだと言って憚らない。しかし、ちゃっかり実家に飯を食いに行ったり家族旅行に行ったりはしている。

 ああいう人生は送りたくないなと思っている。幸せになるための努力は惜しみたくない。しかし、ここのところ、朝、起きられなくなって、勤めなどできないと、かなりの危機感を持っている。

 勤めもできない、かといって力仕事もできない、単純作業もできない… 自分にできることを考えると、書くことしかない。しかし、大昔から書くことで身を立てたいと思っていても、今まで、書評を数本と、箸にも棒にもかからない小説を1本書いただけだ。

 なので、今回の「私の話」は、かなり無理をして書こうと思っている。かつて、無理をして書いた文章を、ある映画監督にマス目を埋めればいいってものじゃないと酷評されたことがあるので、ちょっと臆してはいる。

 

 父が亡くなるまで、実家での両親の暮らしというのは、まったく判らなかった。もう20年以上、電話を架けたら「お前とは関係ない!」といってガチャンと切られ、実家に来ても、門扉も開けずに負い返されていた。

 門扉まで出てきて私を追い払うのも父だったので、歳を取った母を見て、しょうじき狼狽した。20年近く顔を見ていないので、当然のことである。母は85歳になっていた。最後に見たのは60歳少し過ぎのことである。

 これも私からコンタクトを取ったのか向こうから連絡が来たのか忘れたが、母は市の介護サービスを利用していて、事業者の担当者が訪ねてきた。その担当者も、両親は、私には絶対に連絡を取るなと強く言うので連絡を取ることができなかったとのことだった。

 私の生活についても考えてくれた。私は、障害基礎年金を2ヶ月に1回13万円と、それがない月2ヶ月に1回、両親からの仕送り13万円で生活をしている。これも、当時の主治医が、このままでは死んでしまうと言って、無理をして両親に金を出させるように交渉してくれたものだ。

 実際、当時は何回か自殺未遂をしていて大きな傷が残っている。母も、心配するどころか「五体満足に生んでやったのにカタワになりやがった」と言う。今になっても、あの時に死んでおけばよかったと思う。

 専門学校で全優の成績を取り大学への推薦を取っていたので、就職活動はしなかった。それが、勉強とは嫌いなものに決まっているから、朝から晩まで机に向かっているのはボーッとしているに決まっているという叔父の言葉で入学金が振り込まれず、やむなくブラック企業に就職した。

 高校の教師からの暴行と両親からの虐待で私は精神を病み、高校を退学して実家を追い出され、私は、入院していた精神病院から大検を受けに行き、大検を取って専門学校に進学していた。実家を追い出されても行くところがないので、私は叔父の家から専門学校に通った。

 私は写真が趣味だったから、幼馴染みは専門学校に進学すると聞いて写真の専門学校だと思ったらしい。ただ、私は、自分の適性や将来設計を考えると、やはり生きていく道は文学だと思っていた。

 大学に編入できる専門学校で英語を読み書きできるようにし、大学で文学を学び、文学の学者になろうと思っていた。そして、私は、朝から晩まで猛勉強をした。高校を辞めたときの英語の偏差値は30だったのだから、それが2,000人いる学生の中で3番の成績を収めるようになったというと、努力のほどは判っていただけると思う。

 そして、大学に進学しようと意気揚々としていた。それが、当時の私にとって、生きる望み全てだったといって良かった。それが、進学するはずの大学の入学金が振り込まれず、一瞬にして絶たれた。

 どの医者も、私が精神を病んだのは家族のせいだというのだが、家族は、それを認めない。ある医者に私はキチガイ家族の被害者と言われたが、今、考えれば叔父にも変なところがあった。警察が家族構成などを訊きに来たときも、お前のような怪しい奴がいるから警察が来るのだといって私を怒鳴った。

 そして、専門学校から大学に進学するときも、会社を抜け出して、昼、私の生活を見張っていたようである。大学に行かせてもらえなかったとき、朝から晩まで机に向かっているのは見ているんだぞ! と言った。

 私が勉強に夢中になっているときに、盛んにアルバイトをして遊べと煩かったのだが、勉強などという嫌いに決まっているものを、そんなに長い時間できるはずがない、そんなものは適当に止めて、アルバイトをして遊ぶのが学生の本分だ、覇気がないと言われた。

 それも、大学の入学金の納入期限を過ぎてから言うのだ。私には、親には大学に行かせるように言ってあると言っていた。

 就職難の時期に慌てて学校に突っ込んでもらったブラック企業での残業は月に200時間を超えた。帰りは、ほぼ毎日、タクシーだった。それも、叔父は、会社が新入社員に残業などさせるはずがない、六本木で遊んで帰ってきているに違いないと言って私に専業主婦以上の家事をさせた。新入社員が毎日、六本木で遊びまわってタクシーで帰る金があるはずがないとは思わないのだ。

 それでも遊んでいると言われ、私は最初の自殺未遂をした。そして、叔父の家も追い出された。そのときに専門学校が保護者に送付していた成績表が出てきたのだが、それを見て叔父は初めて、有(私の本名)は、こんなに成績が良かったのかと言った。

 その成績表は、当然、私の両親も見ている。しかし、何事につけても、私の両親は事実や私の言うことより叔父の言うことを信じた。叔父を溺愛していて、叔父の借金の肩代わりをしたり、何事も叔父が優先された。

 事実を見ないというか、私の言うことは、すべて否定された。高校で私が教師の暴行に遭っていると言っても信じなかった。私たちの言うことを信じていれば絶対に東大に入れますといって特待生として私を入学させた茨城県の新興進学校の言うことを信じ、私は、夏は40℃を超える部屋に幽閉されて脱水で何度も倒れたのは今までも書いている。

 

 話を現在に戻すと、そんな、叔父と母という仲良し姉弟の中に私がいて、いい思いをするはずがない。叔父は、前回、書いたように、1日中、飲んだくれている。母も一緒に酒盛りをしていて、私は、ひとりで相続の手続きに飛び回っていた。

 それも、ないはずの銀行預金通帳などが、後からバラバラと出てくるのだ。また、どうしても母を同行させなければいけない手続きでも、前述のように母は写真入りの身分証明書を作らないため、そのたびに私は市役所の支所に住民票を取りに走った。余分に取っておいても、後から後から出てくるため、すぐに足りなくなった。

 私には兄弟姉妹がいないので相談する相手もなく、東京に戻って銀行に相談に行くと、法定相続は配偶者が1/2、子供が1/2だから、解約の上1/2づつ振り込むことが多いですねと言われた。

 そして実家に電話をして、母に、その旨を伝えると、お前は、遺産を半分、ブン取れるから今までも嬉々として動いていたのだろうと、私をなじる。叔父は今回も、私には、母に遺産を分けるように話しておくと言いながら、母が電話をする背後から、有には1文もやるな! と、けしかけている。電話に出ろと言っても出ない。

 そして私が実家に行くと、20日近く入り浸っていた叔父は、私を見るなり逃げ帰った。そして、再び母の通院に同行したら、γ-GDPが800近くという数値になっていた。ずっと叔父と酒盛りをしていたようである。

 私が、銀行への相続届に署名捺印を求めると、ガキのように駄々をこねる。そして、相続の手続きなど本来は不要なもので父名義のものを自分が使い続けていれば良いものを、私は「遺産をブン取る」ために不要な手続きをしているといってゴネる。

 そして、こんななら、叔父と、ここで、こうやって、毎日、酒盛りをしていたいなどと言い出す。相続の手続きは遅々として進まない。

 同時に、とりあえずは目の前の生活費を何とかしなくてはならないと思った。私が住む東京都港区の生活福祉係というところに相談しに行くと、ここは、生活保護を担当する部署なのでと、生活・就労支援センターというところを紹介された。

 そこで、担当者に、生活に困っている旨を伝えると、仕事をできる環境を作るために、先に相続のことを片付けてしまいましょうと法テラスに予約を入れて同行してくれた。

 法テラスの弁護士は相続専門の弁護士ということだったが、父が生まれてから死ぬまでの戸籍謄本を… というので、あらかじめ法務局で作った「法定相続情報一覧図」を見せたら、そんな勝手に作ったもの、何の役にも立ちませんよと言う。法定相続情報証明制度を知らないのだ。

 そして、その弁護士は、法定相続以外で預金を分配するのには、銀行に「遺産分割協議書」を提出しなくてはいけないと言う。これも、銀行に話をすると、銀行としては金さえ払ってしまえば家族で何があろうが関知しないので必要ありませんと言われた。そして、生活・就労支援センターの職員には、書類にハンコを貰うことなど、どうでもいいから、きちんとお母さんと向き合って、遺産を1/2づつ分けるように話をしてきてくださいと言われた。

 母は私の話を聞く耳など持ちませんし、私は、実家に行くたびに血圧が180㎜Hgを超えるという身体の拒絶反応が出るので、母と向き合うなど、とうてい無理ですと言ったのだが、お母さんは、あなたのことを愛しているから生活費を送ったりしているのですなどと言う。

 主治医に話すと、それは、素人の浅知恵です、治療方針に反するので話は聞かないように言われたと伝えてください、と言われた。

 どうも、センターの職員が弁護士弁護士と言うのも、私が手続きが進まないと言うのは、親とのコンセンサスが得られないからではなく、単に私の事務処理能力がないためと思っている節がある。私は法定相続情報一覧図などを作成したりしているのを見て、中途半端にやると、弁護士さんに頼んだとき、弁護士さんが困りますからと言われた。

 また、さかんに弁護士を勧めるので、私の中学生のときの塾の同級生で弁護士をやっている人物に手紙を書いてみた。電話でなく手紙なのは、私が嫌な話ばかりして迷惑を掛けてばかりいて電話に出てくれず、愛想を尽かされていると思ったからだ。

 そうしたら、意外にも電話が架かってきて嬉しかった。状況を話すと、弁護士にできることといったら手紙を書いたり電話をすること程度だよ、そして、相続で揉めているのなら、弁護士も結局は裁判所に持ち込むしかないよと言われた。

 とりあえず、もう少し母を説得してみると言って電話を切った。母が預金が凍結されていることに憤っていると話すと、逆に、使い込まれなくていいのではないかな… と言う。

 そして、先日、再び母と話し合い、母が私のために積み立てているという国産車1台分くらいの金を貰うことで私は妥協した。銀行への相続届は、すべて母と私に1/2づつ振り込むように書いてしまったので、再度、用紙を取り寄せ直した。

 母は、遺産の、ほとんどが自分のものになったと知ったら、態度を変えて私に協力するようになった。私には1銭の得にもならない生命保険の請求手続きや年金の手続きをするときでさえ、すべて私が話を聞き処理をして、自分はサインをするだけだったのに、それでさえ文句を言っていたのにだ。

 そして、叔父は帰ってから電話ひとつも寄越さない、私が来なくて知らない間に孤独死してたらどうするのだと言う。自殺未遂をしたとき、私は1ヶ月も発見されなかったのだから、私のほうが孤独死に近いと思う。

 今回、松戸に来たのは、そんな親でも少し心配という気持ちもあったのかもしれない。3日前に実家に着いたときは午後5時半だったが、家の灯りが付いていなくて、少しドキッとした。しかし、母が心配ということより、正直いって父の直後に母かよ、勘弁してくれよと言う気持ちのほうが大きかったと思う。

 

(Part 4に続く)