身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

何もしたくない人が羨ましい。

 本が読めない。もう何十年も読めない。中学の同級生などに会うと、よく本を読んでいたなぁと言われ、実際、編集者志望で出版社で見習いをしていたのだから、その道に進みたいほど好きだったのだと思う。

 思うというのは、それから数十年、本を読んだ記憶がないからだ。実際、本棚に「積読」されている本の発行年度を見ると、古典は別として新しいものでも2000年前後となっている。

 最新のものは、まさか家に1冊もないであろうと思っていた大っ嫌いな幻冬舎の本『ボロボロになった人へ』(リリー・フランキー著・2003年)だった。これは確か友人の勧めで買ったものだ。あまり主体的に買ったものではない。このBlogの読者プレゼントにしよう。Twitterのダイレクトメッセージで応募してください。

 しかし、本棚に積まれている青木玉さんの本などを見ると、あ、読みたいなと思う。20年以上たっても読みたい気持ちが色褪せていない。それなのに読んでいないのは「読めなかった」のだ。最近になり鷺沢萠さんなどの軽い本を読んでいるが、それを読むのがやっとである。記憶障害なのか何なのか読んだ先から忘れる。

 ちなみに出版社から送っていただいた本の最新版は、あえて版元と書名は秘すが2011年である。これも読んでいない。芥川賞作家の作で、パラパラッと見ると軽妙で面白そうだが、そんなものも読めない。

 そして今、読みたいな、と思う。家にいると辛くなるので、区の精神障害者自立支援センターに持って行ったりするのだが、本を読んでいると馬鹿にする人がいる。フランス語の勉強をしている自分を見せ付けて酔っている人もいる。3年も勉強しているそうだが、Bonne nuit.と挨拶したら怪訝な顔をされ、Oui Monsieur!と答えたら何を言われているのか判らないと言われた。

 この辺が港区の豊さゆえの弊害なのだろうが、彼らは、不動産収入で暮らしていたり、生活保護を受けながら平然と実家から50mのところにアパートを借りて家事は親任せである。そして何もしなくていい障害者万歳と言って朝から仲間を集めて酒盛りをしている。

 そんな子供を近所に住まわせて平然と面倒を見ている親も親だと思うが、考えれば子供も子供なら親も親である。そして子供(といっても50代である)も何もしないでいられて羨ましいと思う。働きたくて仕方がないのに働けなかったり、勉強をすることを渇望している人の苦しみがないのだから。

 私は病苦で20歳代から成長していないのが恥ずかしいのだが、そんな私が見ても子供だなと思う。そして、本人たちは、それでいいと思っている。子供でいられて、努力しないでいられて、それで苦痛がないのなら、それはそれで羨ましいと思う。私など、本が読めないだけで苦しくて苦しくて仕方がない。