身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

下流のTV番組。

 昨日、Blogをアップデートする前にアクセスログを見たらアクセス数が「1」で驚いた。再度、ログインしてみたら普通に数百あるのでホッとしたのだが、なんかURLが違う。そう、昔のBlogにログインしていたのだ。このBlogの結果、昨日は8だった。新しいBlogって、こんなものだっけ。まぁ、以前のBlogみたいに自分の本領を出し切るといった目標もなく雑記に留めているので構わない。しかし誰も読んでいないと、もはやBlogではない。

 

 さて、林真理子さんの著作に『下流の宴』というものがある。中流家庭にいると思っている主人公の主婦が、高校生の息子が中卒フリーターと結婚すると言い出したら下流に落ちてしまうと焦り出す。しかし実は本人も下流にいて、下流社会のドタバタを描いたものだったと記憶してる(私のメンタルがガタガタの2013年の刊行だが不思議と読んだ記憶がある)。

 私は、かなり「下流」にいるなという自覚がある。病気とはいえ仕事をしていないし、ここ数年、本当に何もできない日々が続き、気が付けば自分の部屋は汚部屋になっていた。奇麗に暮らしていますねと言われ、友人がちょくちょく泊っていった日々を過ごしているから、この事実はショックである。

 さて、そういう「下流」の私が書く、下流の中の下流の人たちの話である。こんなことを書こうと思ったのは、今日、Twitterでフォロイーさんがつぶやいたツィートに、ほう、というものがあったからだ。原典は2ちゃんねるの過去ログである。

changi.5ch.net

 

 前スレッドまで冒頭の定型文、いわゆるテンプレートが「貧乏な友達の家に行くとありがちなこと共通20則」だったのだが、このスレッドでは3項目、追加されている。フォロイーさんが引用した「みみずん」の過去ログで、はてなブックマークが2つも付いているのは、その3項目のためではないかと思う。

 さて、その付け足された3項目は、これ。

21、娯楽は主にテレビ(ブラウン管)みて愚痴いうこと(自称・評論家(誇らしげにいう))。
22、情報源も主にテレビ(ブラウン管)や三文週刊誌 (自称・情報通(誇らしげに恥かしげもなくいう))。
23、類は友をよぶで貧乏・DQN親和性高い。

 TV好きの私は、本を読めないことへの代替の手段としてTVを観ているのだが、さらに下流の彼らは、これらの三文週刊誌(笑)と同じ項目が流れる「情報番組」しか見ない。映画やドラマも観なければ、バラエティー番組さえ見ない。テレビ依存で新聞も取っていないのにニュースも見ない。

 テレビの視聴というのは受け身であり、積極的にコミットする行為ではない。私は本を読めないことで脳味噌が退化しそうで怖いのに、彼らは考えるきっかけを与えてくれる番組を見ない。いみじくもという言葉を私はあまり使わないのだが、それを「誇らしげにいう」「恥ずかしげもなくいう」というのは、まさにそのことだ。

 下流にいて怖いのは、上流を見ないことである。この2ちゃんねる投稿をツィートした方は、私から見ても、かなり上流にいる。教養が半端ではない。Blogを拝見しても世事について触れられていることが多いのだが、「評論家」や「情報通」の態を取っていないのに、なかなか鋭く端的にまとまっている。

 下流の中の下流の人たちは、上流が見えたとしても、それを拒絶する。私が小説を読んでいると、気取っているんじゃないと、茶化すのではなく、けっこう本気で怒りを剝き出しにする。向上心の放棄である。本を読むことは、彼らにとって気取っていることであり恥である。この2ちゃんねるの投稿を見ても、新聞を取っていない、本棚がないは、既にレス中に謳われている。

 こう考えると、根本にあるのは「感受性」ではないかと思う。私は、かつて、他人が書いたものに衝撃を受けたから文学の道を志した。しかし、親が大学に行かせてくれなかったのは以前のBlogで述べた通り。やはり私の親も芸能人のゴシップ大好きな人で、私の部屋の本棚を見ると、たった100冊の本を「一生かかっても読み切れないほどの本」と言って捨てることを強要する。新たな刺激を拒む。

 感受性こそが新しい世界を模索し、新たな発見を通じて人間を成長させるのではないかと思う。同じ下流にいてTV番組ばかり見ている人たちを見ても、バラエティー番組さえ見ないのは、バラエティー番組ですら何も感じられないほど感覚が鈍しているからという気がしてならない。

 なお、林真理子著『下流の宴』に出てくる中卒フリーターの息子の彼女は、一念発起して大学の医学部に入学する。上流を志した時点で、もはや、そこは下流ではない。水が低い方に落ちるのを良しとしていない。