身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

電話に関する記憶。①

 以前のBlogで紹介した古典的なジョークを一つ。

男性:電話番号を教えてほしい。

女性:電話帳に載っているわ。

男性:では名前を教えてほしい。

女性:それも電話帳に載っているわ。

 

 さて、今日は公衆電話の日だそうで、Twitterでは公衆電話のかけ方を知っているか否かが話題になっている。ただ、客観的なデータはないようで、小学校で教えているという事実から、子供は知らないんだろうなという話で落ち着いている。

 私が物心ついたときに家にあった電話は黒電話だった。壁に直挿しで、まだモジュラージャックもなく、電話器を変えるには電話局か代理店に工事を頼まなければいけなかったと思う。私が今の住居に引っ越してきたのは1996年のことだが、まだコンセント(?)がこの形式だった。

 パルス回線ではなくトーン回線を使えるようになったのも、この少し前だと思うが、電話のダイヤルについて語りだすと長くなるので止める。今でもコールセンターなどに電話を架けると♯を押してくれというメッセージが流れることがあるが、これは、それによりパルスが出るかトーンが出るかで回線を判断するためのものだ(公衆電話の話を書いたら知らない人がいそうなので念のため)。

 そして、留守番電話が普及したのは中学生か高校生のころだと思う。まだ半導体の記憶容量が少なくカセットテープ(マイクロカセット)を使うものが主だった。アメリカではパイオニアの商標・アンサホンがウォークマンのように商品名として使わていたそうだ。

 私の家はついにビデオデッキを買わなかった家なので、最後まで黒電話で通したが、電話機市場が熱を帯びてくる。コードレスフォンが出たのも同じころだったと思う。最初は信号化されずアナログで送っていたものがデジタル化され、それは後にPHSに発展する。

 この時期、私は友人宅へ行って驚いた。親に断りもなく電話を使っているからだ。私の家は厳格というか管理が厳しいというか、高校生にして、いちいち、親に許可を取ってしか話せなかった。もっとも、コードレスフォンも、半分はそういう子供のニーズがあって普及したようなものだ。

 一人暮らしを始めて最初にすることは電話を引くことだった。以前も書いたが私はクレジットカードを使い始めたのが早く、その審査には電話を持っていることも条件だった気がする。世間ではポケベルが使われていたが、私は使っていなかったので判らない。

 ちなみに、私は、このときに引いた電話の電話番号をいまだに使っているが、非常に覚えにくい番号である。車の2桁ナンバーではないが、まだ東京は6xxxという番号がなく、空きが少なかった。

 そして、冒頭のジョークではないが電話帳に載せるのが常識だったので、当然のごとく電話帳に載せたため、つい先日まで迷惑電話が雨あられのように架かってきていた。電話帳の掲載を止めた途端にピタッと来なくなったので、心当たりがある人は要チェック。

 就職して最初に触れる電話というのはビジネスフォンだ。普通に架けると社内の内線に繋がり、認識符号を付けると外線に発信できる。大体が最初に0を押すことだったので「ゼロ発信」と呼ばれた。

 最初に就職した会社は小さな会社だったのでPBX(構内交換機)に繋がった電話は全ての電話で呼び出されるようになっていたが、どの会社か忘れたが、大きな会社で、まだ交換台があるところがあった。モニターに、どのような表示がされていたのか忘れたが、いきなり電話に出て「交換台です」と言われたときには驚いた。考えてみれば受付から電話があるようなもので大したことではないのだが。

 また、仕事柄、国際電話というものを架けるようになるが、長くなるので、この辺から次回ということにする。