身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

昭和56年、自殺は精神の禁漁区だった(藤原審爾『死にたがる子』を読んで)。

死にたがる子 (新潮文庫 ふ 10-1)

 

 昨日、なんで、あんなエントリーをアップしたのか、自分でも不思議だ。病んでいたのだと思う。今朝、読んで、消してしまいたいと思った。そして、精神障害者地域支援センターに行ってきたのだが、以前、書いた、生活保護を受けられるから精神障害者バンザイと言って憚らず、病気の治療すらする気もない人間が来た。

 生活保護を受給している友人が、受給をしていると言うのさえ憚れるのに、受給者は、そういう人ばかりだと思われるのは遺憾だと言っていた。私も、同じマンションの住人にゲーム飽きたでしょうと言われることがあるので、気持ちが判る。金を稼いでいないだけで、これだけ引け目を感じるのだから。

 勝手に生活保護受給者アピール・弱者アピールをしているのは勝手だが、いない人の悪口ばかりを言っていて、私も自分がいないところで無いこと無いこと言われているのが耳に入っているので、さらに気分を害してしまい帰ってきた。

 また、ハードウェア面でも、インターネットに繋がったPCはあるものの、ブロッキングが施してあり、例えば、このBlogなど、Instagramの写真が埋め込んであるのでSNSは利用不可だとエラーが出る。エラーが出て他のページに遷移しようとしても、埋め込まれた部分が画面に残っているとエラーメッセージが出続けたままで、さらなる遷移ができなくなりブラウザーがフリーズしてしまう。ブラクラかよ。そして、なぜか区でWi-Fiを整備しているのだが、それが入らない。

 

 さて、本題であるが、今、この本を読んでも、まったく役に立たない。役に立たないということは、現実味がなく、小説としても存在意義はない。週末は一家の主は轍麻して朝帰りするのが普通とか、そういう時代の話である。ひょっとして週休2日でもないのかもしれない。しかし、子供の自殺がセンセーショナルな事件として扱われるという点に限っていえば、現在より健全な時代だったのかもしれない。

 出来事には何事も原因がある、その原因を、それを取材する新聞記者という立場から考えるという、非常に捻りのない、しかし直球勝負ともいえる設定は、この作家では稀なことのようである。しかし、小松伸六氏の解説にもあるが、筆者の結論は、なかなか苦し紛れなものだ。あまりに時代に即さないので斜め読みになってしまったのだが、私が結論だと思った部分は、やはり小松氏も同文章を結論だと取り上げている。

なにかのショックで、死を選択してしまったと考えたほうが、事実に肉迫出来るようである。子供たちには、やはりほっておいても好きなことをして遊んでいられるような能力・生の機能を育てておかなければならないのだろう。

 (新潮文庫版215ページ)

  ちなみに解説の書き出しは、このような文章だ。

 自殺は、私にとっては不可知の精神の領域である。いや、この領域には入ってはならぬ精神の禁漁区とさえ考える。

 文学者にとっても自殺が“精神の禁漁区”である。自殺を考えるどころか、自殺について考える人がいない社会では、子供の自殺といえばタブー中のタブーだろう。しかし、現在、子供の自殺が普通にある社会において、自殺の理由は、明確に、ショックで選択するような軽はずみなものでもなければ、楽しみがないからでもない。

 私には、むしろ、この小説のような、サラリーマンの楽しみが麻雀とパチンコという社会の方が、楽しみがないように思える。その考え方でいえば、子供にはゲーム機を与えておけば自殺をしないという考え方にすらなりそうだ。私はゲーム機すら与えられなかったし、よって楽しみが判らないが。

 私の父は1929年(昭和4年)生まれで、私の母は1933年(昭和8年)の生まれだ。1972年(昭和47年)生まれの私は、昭和53年には6歳で、両親が高齢での子供であることを考えると、両親が普通の年齢で子供を産んでいたら、まさに、この小説と同時期・同世代である。

 私が中学で神経症になったとき、母は、私がヘンになったから旅行に連れ出したと言う。この小説の中でも一戸建てを買って子供を土に触れる楽しみを与えてやるという事例が出てくるが、かなり、子供を見くびった話だなと思う。かつて、北杜夫先生の娘さんが、父親が鬱だったので旅行に連れ出したが逆効果だったと何かで書いているのを目にしたが、精神科医の娘でさえ、そうなのだ。

 現在、これだけ自殺が多発しているのは、当時、自殺というものが臭いものに蓋をされるように扱われてきた、あるいは、安直に考えられてきたツケが回っているような気がしてならない。

(タイトルの年号が西暦ではなく和暦なのは、書籍が和暦であることに依る。昭和56年というのは文庫版解説の日付。)

 

P.S. しかし、私が、なぜ、この本を手に取ったのか、そして、小説中の文章が、なぜ、吉行淳之介氏の小説中の文章だと思い込んでいたのか、相変わらず謎である。