身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

腐らなくて良かった。

 昨日TVで観た映画「コクリコ坂から」について書こうと思ったのだが、さして面白いと思わなかったので止める。

 ガリ版に対する思い出とか書けなくもなさそうだ。鉄筆に替わって出てきたボールペン原紙なんて知らない人の方が多いだろう。

 他方、期待しないで観ていたTVドラマに共感できる表現を見るとホッとする。最近だとTBSの「MIU404」

 ご覧になった方は判ると思うが、荒唐無稽さという意味では「コクリコ坂から」を超えているのだが、たまぁに一つ一つの言葉に呻ることがある。

 私は言葉にも「正解」はあると思っている。比較的明快なのは「ありがとう」「ごめんなさい」だろう。ただ、状況というのは、そう簡単なものではない。

 昨日の放送を観て、これは正解だと思ったのは、多くの犯罪を犯して捕まった少年が逮捕されて堰を切ったように自分が犯した罪を懺悔し始めたシーン。

 捕まえた警察官の台詞が「ぜんぶ聞いてやる。」しっかり受け止めてくれる感じがするではないか。

 前回か前々回の放送でも、うーんと思うことがあった。これが掲題の台詞なのだが、綾野剛さん演じる伊吹という警察官の言葉である。

 眠剤を服んだ後に観ているので他のTVドラマと混同したりストーリーが正確に捉えられていない部分があるのだが、確か伊吹という警察官は奥多摩の駐在所だかに飛ばされて久々に本部に帰ってくる。

 そしてのたまう台詞が掲題の「腐らなくて良かった」である。これは、腐らなくて良かったと思う私だから正解に思えるのかもしれない。

 私は、決して勉強ができなかったわけではないのに他の要因で高校を辞めている。そこでグレてしまうことは簡単なことである。

 結果、私は大検を取って専門学校に進んだ。大学も受かったのだが、親に跪いて物乞いをしろと言われ、泥を噛む(砂を噛むは誤用)思いで受け入れた。

 そして大学に行かせてやると言われ入学手続きをしたのに、シラッと入学金だけ納入せず進学も就職活動もできなかった。このような話は枚挙に暇がないので機会を見て書く。

 「腐らなくて良かった」は、そんな私が実感している言葉である。高校を辞めた、大学に行かせてもらえなかった、それから派生する諸々の出来事。グレる理由は十分にあった。

 しかし一方で、グレるというのは利口な生き方ではないと思っている。短期的な快楽を求めて一生を棒に振っても仕方があるまい。

 まぁ、腐らなければ良かったと他人を説得できるほど成果らしい成果は出していないが、それでも大検を取って良かった、専門学校に行って良かったと思っている。

 最後に、また好きな作家、鷺沢萠さんの言葉から。

なにせ、やはり人間はバカです。でも、だからといって「人間やめちゃえ」などと、グレるのは簡単なことなんですね。そうして、人間は簡単なことからやりはじめます。人間はバカな上に無能でもあります。けれどバカで無力なものはそれなりに、きっとどこかで力を発揮できることがあるはず。頑張ろう。頑張れ、俺。(『サギサワ@オフィスめめ』角川文庫版250ページ)

 

 

P.S.

 まだネットストーカーに脅されている。私の足跡を付いたスターを辿って行った友人のBlogで「2020.7.21.17:41」に見付けたと言ってきた。

 私は前のハンドルネームでは死んだことにしてあるので、死んだ後のことだろうといいたいようである。

 私の旧Blogに付いたスターを片っ端から当たったそうである。Twitterやnoteも漁ったんだぞと書いている。

 まぁ、その執念なら、さらにそのBlogに付いたスターを当たってここに来るのも遠くあるまい。しかし読者の皆様がいると思うと鬱陶しいが怖くはない。

  他人の家の生ゴミを漁るのがいかに汚い行為であるか、さらにそれを公言するのは、どんな異常な行為か。

 数年前、私の国語力を結集して教えてあげたのだが「論破したことにはなりません!」と変なメッセージが来た。教えてあげただけで議論など最初からしていないのだが。

 もう怖くないので、ネットストーカーの国語力について例を再掲する。引用符以内、私の文章の引用だとする部分を含めてネットストーカーの文章ママである。

【引用開始】

「なんか違うんだよなぁ」という感覚こそ、人間の倫理観の根本にあるのではないかと思う。

【引用終了】

この「なんか違うんだよなぁ」という感覚は、あるテーマに対する判断、決定、実行に際して躊躇、屈託、韜晦であって“倫理観の根本”とは言えないだろう。
敢えてその言いたいことに寄り添えば、”出発点”と呼ぶべきものであろう。
およそ倫理と言うのなら、その先の”こうすべき”まで議論がされなければ単なる疑問、違和感でおわってしまい、何の結論も得られないからだ。


あらゆるテーマにこの「なんか違うんだよなぁ」を以て対峙して、判断、決定、実行を留保する。
これは倫理の持つ課題である”善悪”について”彼岸”*1に自分を置こうというものであろう。
この立ち位置は、自らをあらゆる行為の極北に立たせることだ。

このような”極北”*2に立てば、およそ”してはいけないこと”と”してよいこと”の分別は出来ないであろう。

 

これは一見して自らをあらゆる立場を超越した高みに置いているかのように受け取れる。
しかし、さらに検討すれば”何もしない(あるいは、できない)”という袋小路に自分を追いやることになってしまう。
そして、どうやらそういう高みに立っていることで自ら行為することを回避していることを正当化している気配を感じてしまう。
なぜなら、「なんか違うんだよなぁ」と留保をつけているがその感覚をそれ以上深めようとしていないからだ。

 

*1.ニーチェの著作からの借用である。

*2.これは『カラマーゾフの兄弟』を訳した米川正彦氏の解説に出てくる言葉である(岩波文庫版)。

 

 すべてこの調子だ。ニーチェガー、ドストエフスキーガーで、何をいっているのか判らない。放っておいたらスルーされたと逆恨みする。

 有名人についても嘘をでっち上げて誹謗中傷していて、ここで私が取り上げるのは、その嘘が流布されて名誉棄損で訴えられればいいのにと思っているからだ。

 例えば、私が出た高校は中高一貫校でも何でもないのだが、中高一貫校にされ、高校から入った私は内部進学者に付いていけずに落ちこぼれたことにされた。

 実際、私は主席なのだが、それを知らない人は、書かれたことが本当だと思う。しかも、私の顔写真まで入れて、私の本名を挙げ、その手の嘘を大量に流布された。

 私は変に挑発に乗ってしまったのでその権利を失ったが、有権者は、どんどん提訴していただきたい。刃物はキチガイから早く取り上げなくてはならない。