身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

焦ったらクラッチを切ろう。

鷺沢萠さんに捧ぐ

 

 車を運転しなくなって20年が経つ。一応、免許証は返納しないで更新しているが、車に乗ったときのことをシミュレーションしてみると、日常点検をして乗車してエンジンを掛けて… というところまでは良いのだが、さて発車だとなって、どこを確認していいのか判らない。後方からの自転車は怖いので、それだけは記憶に残っている。

 最後に車に乗ったとき、すでにクラッチが繋げなくなっていた。一応は三田自動車練習所の出身で会社ではマニュアル車に乗っていたのでショックではあった。もっとも、会社でも焦ると事故を起こすからと仕事で使うときはタクシーを使わされて、仕事が暇だとドライブしながら練習してきていいよと鍵を渡された。

 ここで会社の名誉のために書いておくが、新入社員なのに女性でも残業が150時間あって… と書くと、超ブラックな会社と捉われかねないが、実際のところ、データをファイルで貰っても受け入れるプログラムが書けず、いったんは紙に打ち出して手で入力するという不合理なことをしていた会社であった。旧態依然の会社のためにシステム開発に金を掛ける意味が判っておらず、マンパワーが、こういうところに使われたに過ぎない。

 本社は赤坂にあり、当時の海運会社なので支店は青海ではなく大井埠頭にあった。仕事が暇になるとフラッと大井埠頭に行ったのだが、第一京浜国道でエンストを繰り返しながらも嫌がらせをされなかったのは、品川ナンバー様様である。初めて大井埠頭の支店に行ったときのことは鮮明に覚えている。帰ったら先輩方に拍手で迎えられて、何かと思ったら、大井から着いたと電話があって驚いたよ、まさか独りで無事に大井まで行くとは… と言われた。

 それから、なんとなく車の運転が楽しくなった。車は嘘を付かない。こっちがギアを繋いだ時点で車は新たな加速度をもって加速していくし、ハンドルを切れば本当に弧を描いて車が回っていく。カーブしながらハンドルを切りなおす人がいるが、あれは高校のときに微分の勉強をしなかったのかしら。カーブが一定なら微分係数が一定なのでハンドルを切る角度は変わらない。そういうことを考えながらハンドルを切るのも楽しい。

 今でこそ手動でシフトができるオートマチック車も多くなったが、当時はポルシェのティプトロマチックぐらいしかなく、普通の車のギアはドライブとセカンドくらいの位置しかなかった。セカンドから上げて加速しても、セカンドに落として減速しても、半クラッチがないので、ギアが変わるごとにガタンと加速・減速する。自分の意のままに車が動く楽しさがなく、どうしてもマニュアル車に乗るようになった。

 しかし、会社を変わって机に向かうのが専業になり、車は旅先でレンタカーを借りるのみになった。以前、飛行機での旅行が好きと書いたが、一つの要因として、駅から遠くても飛行場の傍にはレンタカーの営業所があるからだ。私は荷物が多い方だが、車を借りてしまえば積むだけだ。

 ただ、レンタカーは、ほとんどオートマチック車だ。オートマチック車限定免許は私が免許を取った直後に始まったが、それはすなわち、私が免許を取った時点でマニュアル車に乗らないという人が大多数いたということだ。

 しかし、若いときにマニュアル車に乗っていたのだからというのは自分を過信していたのだと、渋川に住む友人の車に乗って思った。私は東京から日産自動車に貸与を受けていた、ティプトロマチックをモデルにしたというミッションを積んだフェアレディZに乗っていった。途中、急に、私の前の車が、私の前で止まって騒ぎ出し、何かと思ったら私がぶつけたと言う。

 とんだ難癖で私の方から警察を呼んだら、若いくせに品川ナンバーを付けて高級車に乗ってんじゃねぇ! と吐き捨てて逃げてしまった。その土地のナンバーの、発売されたばかりのエクストレイルだった。粋がっている若者ならともかく、中年のオヤジというのは仕方がないなと思った。粋がった若者なら、逆に若くてか弱そうなのを相手にしたら惨めな結果が待っているということくらい判っていただろう。

 さて、軽井沢に行く途中、前橋の駅で友人と待ち合わせをした。彼の車はスズキのスイフトだった。マニュアル車だったせいか、サスペンションは柔らくBMWのミニよりもローバーのミニに似てる印象を受けた。自分の車を他人に貸すような奴ではなかったが、我々は車を交換して荒川沿いの国道を走った。いや、走っていない。私がギアを繋げず、変にクッラチ板を擦り減らすのも嫌で、すぐに友人に助けを求めたのだ。

 結局、私は友人の車の助手席に乗っていた。荒川を眺めながら、東京では、水面をたたえて動いているのかいないのか判らない荒川も、上流に来ると、こんなにも活き活きと流れているのだと思った。同じ関東とは思えなかった。車に乗ること自体を止めてしまったのは、それからすぐのことだ。

 車の運転をしていたときのことを思い出したのは、今日、あ、これはエンストを起こしたときの感覚に似ているな… ということがあったからだ。

 今日、他人と話をしていて、自分でも、あれ、変だ、と思った。口から言葉が息せき切ったように出てきて、相手の返事を待たずに相槌を打っている。それだけではなく、次の言葉が喉の奥から湧いてくる。そして、ふと、右足ではなく左足に力が入っている。

 他人の車の助手席に乗ると右足に力が入るというのは、車の運転をする人が、よくする話である。それは端的にブレーキを踏むということなのだが、車の運転をしなくなった私は、ブレーキ踏むという感覚がなくなっていたのかもしれないと思った。そこまで極端ではないところで何とかリカバーできると思ったのか、エンジンブレーキも間に合わないと思ったのか、すっとクラッチを切ってニュートラルにする感覚を覚えた。

 ところが、こんなことも思い出した。自動車教習所の教員というのは、だいたいがタクシーの運転手上がりや公安委員会上がりであるといっても過言ではない。三田自動車教習所では、技術は卒業してからも上達するといって公安委員会OBを多く採用していた。そんなものは試験時間に計算している暇はないのだが、車両通行帯が破線から実線になるのは、なぜ交差点の30m手前なのか。そんなことまで教わった。なかなか興味を持たせるのが巧い。

 そして実習でも、それはタチが悪い教官もいるにはいるが、だいたいが、勝手にブレーキを踏んだりはしない人ばかりであった。それどころか、焦らないように、指示も視線に入るか入らないかのことで手でひっそりと出してくれた。

 私はクラッチを繋ぐのが下手で、学科は落とさなかったのに、そのためだけに実技を1単位、落とした。そして、そんなとき、三田自動車教習所の教官に、とりあえずクラッチを切ってみようか… と言われたことを覚えている。私にとって、速度を落とすことはブレーキを踏むというよりクラッチを切るということが身に付いているのかもしれない。

 今日、久しぶりに他人と話をしていて、クラッチを切ろう… と思った。

 

 

P.S. Zを運転している写真があったので載せようと思ったら無くなっていた(泣)。