身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

短くて充実した人生への憧れ(映画「君の膵臓を食べたい」実写版を観て)。

君の膵臓をたべたい Blu-ray 通常版

 

 今日は通院だった。やっとの思いで通院したのに、主治医には、その必死な思いは伝わらなかったようだ。「通院の記録」として改めて書くが、こんな苦しい人生は早く終わりにしたいと思う。このエントリーの文章も、昨日、書き始めたものであるが、あまりに苦しくて、そのまま倒れて意識を失ってしまった。

 最近、毎日、なんで、こんなに苦しい思いをして生きていなければならないのかと思っている。先日のエントリーの結末でも、こう書いたばかりだ。

 生きるとは本能だといえば、それまでだが、幸せになりたいという欲求が満たされないどころか苦痛しかないとき、それでも何で人間は生きているのだろうか。苦しい苦しいといえど、私より苦しい人も沢山いるはずだ。人間は、なぜ生きるのか。なかなか回答が出ない問題だ。(2019年12月09日「生に執着する理由。」より。)

 そんなとき、この作品を観た。私が契約している「日本映画専門チャンネル」で新作映画のPRを兼ねて「女優・浜辺美波が観たい!」という特集をやっていて、私は浜辺美波さんという女優さんを知らないが、この映画についての評価が高いので録画しておいた。集中力が持たず何回も中断し、もう映画館で映画を観ることはできないなと思う。

 この作品を難病ものというのには、ちょっと違う気がする。結末に主人公が夭逝するにはするが、死因は病死ではない。それでは監督は何を描きたかったのかと考えると、死を目前とした人特有のキラキラした輝きだろう。キラキラしているという点で青春ものといえるかもしれない。

 主人公は余命いくばくもなく、死ぬまでにしたいことを幾つか持っている。それがクラスメートの「仲良しくん」を巻き込んで実現していく。その前向きな積極さが健気だ。しかし、これだけしたいことをすれば、死んでも悔いはないよな… と思う。私は、映画館で映画も観られなければ、十数年前、最後に自動車の運転をしたときにクラッチを繋げなかったので、おそらく車の運転もできないだろう。

 話は変わるが、10年ほど前(もっと前かな?)渋谷駅東口バスターミナルで、バスに轢かれて黒人男性が死亡する事故があった。原因は男性が横断禁止の構内を無理して渡ったからだったが、それから、かなり長い間、運転手が乗客1人1人に注意喚起をしていた。そのとき、同じバスに乗った老女が、そんな黒人男性を羨ましいと言い、運転手が、こうやってバスに乗ってくださっているではないですかと言った。

 以前のエントリーで書いたが、人間は他者との関わりで生きている。そして、この映画の主人公は、仲良しくんにとって意義のある存在だった。親友にも良い影響を与える存在だった(それが、主人公が死んだ後の親友の結婚式のときだったので、親友に「ズルい」と言わしめるのだが)。私も仲良しくんと、ほぼ同い歳に、よく似た経験をしたが、今でも彼女に出会って良かったと思っている。

 一方、自分の人生を謳歌して他人の人生に影響を与えているときに死んで羨ましいと思う。バスでの老女とバスの運転手との会話が記憶に残っているのも、そんなことが頭にあるからだろう。今になると判るというやつである。

 私は20年ほど前に苦しんだ挙句に自殺を図って未遂で終わっている。そのときの傷は今も残っているし、それからの私の人生には苦しいことしかない。そして、これも何回も書いているが、病気になる前の私を引き合いに出して、当時は好青年だったのにと、まるで今の私が腐ったかのように言う人間が沢山いる。なんで、そのとき死ななかったのかと自分の人生を呪っている。

 今朝、起きたら、昨晩は意識が朦朧としながらも、鷺沢萠「この惑星のうえを歩こう」が机の上に出してあった。鷺沢氏も自殺したのは35歳、彼女の存在は私にとって大変に有意義なものだったが、すでにこの世にない。鷺沢氏や、この映画の主人公のように、他人に意義があるうち死ねるのが羨ましく思う。