身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

他人の死。

 三浦春馬さんが死んだ。私はそれを、Facebookで友人(主に女性)が嘆いているので知った。私の友達だな… と思ったのは、誰も自殺した原因に触れなかったことだ。

 人が死ぬことは止むを得ないことであって、それは自殺でも同じだと思っている。なので、病死のように、その原因を質したところで食い止めることなどできないのだ。

 こう思っている私のところに、noteのおすすめといって、次の記事が送られてきた(ここで書かれている「死」は自殺に限定されているものではない)。

note.com

 

 読みづらい文章なので大まかにしか読んでいない。しかし、なぜ、それ読みづらいのか。筆者にとって「死は日常に存在しないことにしているのだと私は強く認識した」からだろう。

 しかし、結論? の「すべての命に意味が有る」というのは、どうなんだかなぁと思ってしまう。それに、追悼として展覧会をしているのだが、業績を偲ぶわけでもなく、果たして、それが追悼になったのかも判らない。

 死生観というものだろうが、私は、他人の死を、さして、特別なこととは思わない。だって、私だって明日、車に轢かれて死ぬかもしれないのだから。それが、その人になっただけだ。

 それに、自分の命に意味があるとも思っていない。今、地球上には人物だけで77億人近くがいるそうだ(私が学校で習ったときは60億人だった)。それらのうち、何人が、「人間らしく」生きているだろう。

 このnoteの筆者も天職に就いているそうだが、「すべての命に意味が有る」などといえるのは、人間らしく生きて、充実した人生を生きている人の傲慢ではあるまいか。

 苦しくって苦しくって、早く楽になりたいと思う人間にとって、命など、あったらあっただけ邪魔である。そんな人の死が悲しいわけがない。

 少なくとも、私は、そんな生なら最初からなかった方が良かったと思う。私に限らず、例えば夏目漱石『こころ』の先生は、どうであったろう。

 意味がある生を生きている人など、そんなに多くない。そして、彼らの死は、西部戦線異状なし、という情報の前には、なかったと同然である。