身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

他の属性を認めることと差別すること。

 かつて、警察官に、殺したいと思うのは自由ですよ、と言われたことがある。思うのは自由であるが、実行すること、発言することは責任が伴う。俺はお前を殺したい、と言ったら殺人予告までは行かなくても脅迫だと取られても仕方があるまい。ただ、小説の中では普通に殺人が起こっているように、フィクションと踏まえた上では印象操作の一要素にすぎないだろう。

 映画「風と共に去りぬ」がアメリカで配信停止となったと知った。そういえば「ちびくろサンボ」もアメリカで発売禁止になったために、その訳書として存在していた日本版が、日本での発売を中止する意図がないのに絶版になった。

 私もアイコンとして「ティファニーで朝食を」に出てくるユニヨシの肖像画を使っているが、大方の日本人は出っ歯で眼鏡と言われても、そうでないのもいるよとは思うだろうが、さして差別されているとは思わないだろう。同様に、おそらく、この田舎者、と言われたところで、馬鹿にされたとは思うだろうが、地方出身者を侮辱する気か、とは思わないだろう。

 意外と、差別だ差別だと言っているのは、差別する側かもしれないな… と思うことがある。私の友人に、ちょっと変わった(今の社会では、そうでもないけど)趣味を持っている人がいる。その人は、その趣味を隠してはいない。それで不利益を被るとは思わないからだろう。

 今日のこと。これは明らかに犯罪だと思うので書くが、自称30歳(それにしては幼く見える)のサラリーマン2人が、どうすれば女子高生と「ヤれる」かという話をしていた。俺たち若く見えるから(笑)ブレザー着て高校生のふりをすれば引っ掛かるんじゃね? とか、金持ちのホワイトカラー色を出せば付いてくるでしょうなどと言っている。タレントの名前がいくつか出てきたのだが、ググったら、全部15~16歳だった。20歳は「賞味期限の切れたババア」だそうだ。

 ダイバーシティー社会において、いろいろな属性の人がいる、その多様性を認めるのは重要なことである。単純に男と女でもいい。その中でもLGBTの人がいて、彼らの存在を認めることと、彼らを差別することは、また別のことである。未成年の人が好き、それも自由である。川端康成の「眠れる美女」も発禁にはならないだろう。しかし、その属性の人を限定してヤりたいと山手線の駅の駅前広場で声を潜めず言っていいものか。

 「ドライビング・ミス・デイジー」が封切られたとき、真っ先に放送権を手に入れて放送したのはNHKであった(しかも教育テレビで)。この作品は「風と共に去りぬ」を反面教師として、末永く、放送・上映されればいいなと思う。