身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

死にたくなって鷺沢萠作品を読んでいる。

 今日も朝から苦しんでいる。いつも書いているが、起きた瞬間に死にたいと思うのならともかく、起きたときには、すでに死にたくなっている。このまま眠剤を服んで気を失うまで死にたい気持ちと戦わなきゃいけないのかヨッ。

 さて、私は、自分の気持ちを鼓舞するためのようなバイブルといえる本を数冊、持っている。かつて、「死にたいという気持ちを乗り越えるには。」というエントリーで、私は

 私が死にたいと思ったとき、それを楽にしてくれたのは、多くの文学作品だ。これは、小説に限ったことではなく、Blogのエントリーだったり、エッセーだったりもする。考えさせられるものであれば新聞や雑誌の記事も文学といえるかもしれない。

 文章を読んで、そうそう、それそれ、それがいいたかったんだよ! と思うことが、やはり、私にとっては、自分の苦しみを理解してもらうための一番の解決策になる。そして、同じように、自分がいいたいことを解って、一緒に解決して欲しい。

 と書いた。

 このころの私は憑り付かれたように鷺沢萠作品を読み込んでいて、おそらく生にしがみつこうとしていた鷺沢先生に感じることがあったのだと思う。そして、実際に、自分は生きているべきだという結論を得たこともあった。

circumstances.hatenablog.com

 

 この文章のエッセンスは、

他者がいなければ自己も存在し得ない。つまり「私」という「自分」は、他者によって生かされているのである。

という1文だろう。先日、この文章の事実から飛躍なく、倫理や宗教に依存せず、自殺や殺人は、どうしていけないのかという文章をWebで見付けたのだが見失ってしまった。日本のGoogleはノイズが多い。

 ともあれ、今日は、とにかく駄目で。構成も無茶苦茶、こんな文章しか書けないけど、とりあえず、同氏の著作を読み直している。頭に入らないだろうけど。とりあえず「さいはての二人」所収の遮断機。

 この主人公のように、鷺沢先生は遮断機の向こうで「ひとりでよくがんばったよ」と言ってくれるだろうか。「もう、帰んな」と言ってくれるだろうか。