身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

柔軟性。

 今日は訪問看護が来た。担当の訪問看護師は整体師の免許を持っているとかで今日は足つぼマッサージをしてくれたのだが、深刻だった寝違えて突っ張ったようになった肩が治った。今回は家でゴロゴロとしていたせいか感じなかったのだが、前回は実家に行ったらドッと疲れて、さらに実家でこき使われたので1週間寝込むこととなった。

 実家といえば、今日も母からガンガン電話が架かってくる。内容としてはあれをやれこれをやれなのだが、普通にできてサッサとやって帰ってこれないのは、体調が悪かったり他の要因があったりするからだ。それについては、勝手だとか、どうでもいいこととか言われるが、詳しいことは書かない。ひと言で言えば難癖・暴論である。

 体調と、どう折り合いをつけるか。緊急性と体調の絡みを色々な人に相談しながら日程を決めている。既述のことばかりで申し訳ないが、前任の保健師は母のことで… と言うと松戸に住んでいる人のことは松戸に相談してくれ、相続の件で揉めていてと言うと法律相談にと言う人だった。なんか違うと思って区に電話をしたら前々任の保健師が出世していらして、相談に乗っていただいた。

 今回の保健師も、ご挨拶に伺いたいと思うんですが… と言うと、来なくていいですと言う人で、しかも実家で揉めたときに相談をしたら、それでも感謝していると思いますよ、と言われたので、結構ドライで切り捨てる人なのかなと思っていた。まぁ、実際に会ったわけではないので判らないが。なので、ちょっと今日も相談するのは敷居が高いなと思ったのだが、感謝の一つでもあればいいんですけどね… と言われ、おぉ、前回から考えが変わっている! と、少し驚いた。

 常識を疑えという言葉があるが、近年の社会問題の表面化や解決には、常識を常識と思わなくなったことに端を発しているのではないかと思うことが多々ある。例えば児童虐待。私が子供のときは、皆、親は子供のことを思っているという「常識」があった。また、他人の家のことは不可侵・不干渉という「常識」があった。

 「広く会議を興し、万機公論に決すべし。」は近代日本にあって民主主義の原点とされる。ローカリゼーションではないが、国家のことと同じように、地方自自のことも、地域のことも、家庭のことも、すべてのことにおいて議論し、そして、総意として最良の選択を行うのが望ましいのではないかと思う。ダイバーシティーとは、その上での多様性の容認だろう。