身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

思いと考え(鷺沢萠著『今日も未明に電話は鳴った』を読んで)。

夢を見ずにおやすみ (講談社文庫)

 

 今日は通院で、「通院の記録」として書こうか迷ったのだが、昨日、この本について書くと書いたので、その通りにする。実は、昨日、疲れて寝てしまい、目が覚めたのが午後8時50分という有様だった。前日にアップロードした映像を使ったのは、そういう都合もある。

 診察の予約は毎回、午後1番に入れてもらっていて、同じ枠に3人入れているとのことだが、待つことはあまりない。近所に区立三田図書館があり、休館日でも前にあるベンチは使えたのだが、今日は、そこも利用禁止になっていた。しかし、皆、塀に座っていて、むしろベンチより密ではないかと思える。

 診察が終わった後のご褒美みたいな感じで帰りにドトールでコーヒーを飲むのだが、今日は診察前に寄る。この本 『夢を見ずにおやすみ』、実は以前に読んでいて、このBlogにまでアップしていたのだが、忘れていて、ダブって買ってしまった。なので、オチは判っているし、読むのが苦痛である。辛うじて、第1編目の『今日も未明に電話は鳴った』だけ読んだ。

 読むのが苦痛でも、書いた以上、読まなければならない。会社に行きたくないけれど、仕事があるので休むわけにはいかない。葛藤が生まれるのは、そういう「思い」と「考え」の狭間である。

 以前、精神病患者の家族会が開いた講演会を、お義理で受講することがあった。その家族会には統合失調症の患者が多いとのことで、統合失調症の薬の薬理についての話が長くて辟易したが、驚いたのは、それに対して出た質問である。どうも、出席者は母親で、息子が患者のようである。

 息子が死にたいと言っているのですが、効く薬はありませんか?

 講演している医師は、いたって平然としていて、それは病気の症状ではありませんので薬ではどうこうできませんと言い、何か医者らしいことを言った。覚えていないが、まぁ、何か生きがいを見出すものができればくらいのことだと思う。

 しかし、「思い」が変えられる薬があったら怖ぇな… と思った。死にたくなくする薬があるとしたら死にたくなる薬も作れるわけだし、独裁政権が、イエスマンになる薬を作って粛清する代わりに服ませたとしたら、それはSFだ。ひょっとして、その手の薬を凡人に服ませたら、ドーピングしたスポーツ選手を超えるかもしれない。

 死にたいと「思っている」のではなく、死のうと「考えている」のなら、逆に薬がなくても何とかなりそうである。簡単にいえば説得である。前出の例だと、会社に行きたくないという思いは変えられないが、会社に行かなくていいという考えなら、行かなきゃ給料がもらえないでしょ、といえば納得してくれるだろう。

 さて、話は小説に戻る。主人公・和広は、いわゆる不良だったのだが、このままではいけないと大学に進学しデパートの店員となる。昔、この作品について書いたときにも同じ文章を引用したが、

金井和広・二十五歳の出生や性格やすべての資料を性能のいいコンピューターにでもぶち込んだら、現在の自分の生活が答として出てきた、という感じなのだ。

という、いわゆる頭のいい生き方をしている。そして、もうひとりの主人公として、ハマジュンという女の子が出てくる。「説明するのは至極簡単で、ハマジュンはつまり、和広の父親のガールフレンドなのであった。」

 風采の上がらない父親と付き合っている(というより囲われている)ハマジュンを、和広は「カワイソー」だと思っている。父親と付き合っていても、明るい将来があるわけではなし、冷静に考えて得な生き方をしていないからだ。

 そんなカワジュンはカワジュンで、いざ、和広の父親と別れるとき、同情的な和広に対して「あんたのほうがよっぽどカワイソーだよッ」とキレる。人を好きになるというくらいしか取り柄がないけど、自分では、それを才能だと思っていると言う。

 和広が頭がいい生き方をしようと思ったのは、高校時代、同級生のエリート女子(彼女もハマジュンという)に触発されてのことだが、その、エリートの方のハマジュンに再会すると、今は、別に不幸ではないが幸せでもないと言う(記憶によれば、第3話『夢を見ずにおやすみ』の主人公は、このエリートのハマジュンで、決して幸せではなかったような気がする)。

 私の小学校の同級生で、中学から白百合に行って、見合い結婚をして、それなりの生活をしている女の子がいることを思い出した。また、私も、事務系の専門職とはいえ、いわゆる一流といわれる企業にいたので、総合職のレディース・アンド・ジェントルマンを見てきている。

 こんなことを思い出しながら、なんか、俺がハマジュンみたいだな… などと思った。たしかに、月に1回も美味いものも食えず、小さく汚い家に住み、車もなく… それって可哀想かと考えると、そうでもないのだ。むしろ、たまぁに高級レストランに行って、高そうな服を着てワタクシは何々を頂こうかなと言っている紳士を見ると、なんとなくカワイソーな気になることがある。

 思うまま、感じるままに生きた方が、考えて最善の選択をするより、きっと、ずっと面白いと思う。自分も、利口な生き方ができる能力があったのに、そして、できなかったから、そう思うだけかもしれないが。