身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

正しさを上回る愛が欲しい(鷺沢萠『夢を見ずにおやすみ』を読んで)。

夢を見ずにおやすみ (講談社文庫)

 

 昨日、取り上げたように、昨日は鷺沢萠著『夢を見ずにおやすみ』を読んでいた。それを読み終えたので、時間が半端だが、思ったことを書きたい。

 

 今回は、メルカリで当時の読者という方から諸々11冊400円で譲ってもらった文庫本で読んでいる。前の所有者は、読み込んでボロボロになっていることを気にしていたが、きちんと読んでいる感じがして、それは、むしろ好ましい。

 文庫本なので解説が付いている。桐野夏生氏の解説は優秀なので、作品を深く鑑賞したい方は、そちらを読まれたい。しかし、せっかく復刊された、講談社学芸文庫の『帰れぬ人びと』の解説はクズだった。あの値段だったら復刊される前の文春文庫版を買うべきだ。目にしていないが文庫だから解説も付いているはずだ。

 ちなみに譲ってもらった本に帯はなく、今、この商品写真を載せて、なんだ、このエントリーで書きたいことは帯に載っているじゃないかと思った次第。この作家の、同じテーマで何百枚も書けるエネルギー、それが、どこから来るのかを考えると、やはり若さなのかもしれない。

 同じテーマで延々と引っ張っているのに飽きない。考えてみれば、それも若さかもしれないのだが、技巧的に"手練れた"感じがするから、影に入って見えなかったようだ。

 

 例によって、要約は私の主観が入った翻訳で、作品の本質とは関係ないし、場合によっては、筆者に、そんなことは思っていないんだけどと言われる類のことである。なお、この小説は3話の連作である。

 1話目『今日も未明に電話は鳴った』の主人公である和広は、田舎(といっても藤沢だが)のツッパリだったが、「何ものかになりたい」と思い一念発起して受験勉強をし、ストレートで大学に入ってデパートの店員になる。

自分の来し方を振り返ってみると、決して上等のものとはいえないが、そのときどきにいちばん適当な選択をしてきたような気がすることがある。うまくは説明できないが、金井和広・二十五歳の出生や性格やすべての資料を性能のいいコンピューターにでもぶち込んだら、現在の自分の生活が答として出てきた、という感じなのだ。

 その小説の中の、もうひとりの主人公はハマジュンという。和広とほぼ同い年ながら、和広の父親に囲われている、売れないモデルの女の子である。和広から見ると、ぜんぜん、得な生き方をしていない。和広は、思わず「カワイソー」と口走ってしまう。

 それに関して、ハマジュンは、こう答える。

あたしだってさ、人のこと好きだっていうだけじゃエラくも何ともないっていうのは判るよ

でもさ、少なくとも、好きじゃないっていうのよりはエラいと思う

 ふと、むかし観た、サントリー「ザ・カクテルバー」のTVCMの永瀬正敏さんを思い出した(そういえば、この商品、昨年くらいにプロだか何だかの名前を付けて復刻しましたけど見ませんね)。

 

 ハマジュンは、さすがに女性だから「愛だろ、愛」とは言わないのだが、

あたし、たぶん、人を好きになれることくらいしか取り柄がないんだ

でもね、あたしはそれを自分の才能だと思ってる

 と、のたまう。

 3話目が表題作の『夢を見ずにおやすみ』である。こちらの主人公もハマジュンといい、こちらが本家で、1話目のハマジュンは、(ニックネームが)同姓同名だけど対照的な女性として描かれている。

 3話目のハマジュンは、1話目のハマジュンとは逆に頭が良い生き方をしている人間だ。私立の中学に通い、途中までは良家の子女的な生活をしてきたが、その生活が高校入学目前で壊れる。幸せな家庭生活を思い描き「そこにいるのが当たり前」になりたいと思っていた。そして、現実とのギャップに泣いてしまうことがある。

 そして、2話目の『あなたがいちばんすきなもの』については、昨日、書いた。今、読み直してみると、こういう表現があって、「正しく」生きようとする人たちの考えることというのは、こういうことかもしれないと思う。

少なくとも信代は、惰性に身を任せ、流れに身を委ねながらどうでもいいやと思っていたのでは決してない。(中略)だからこそ、ともすれば「面倒くさい」方向に流されていきそうな我と我が身を支え、流れに抗って歩いてきたのだ。

 この本が出版されたとき、筆者は28歳で、その数年前に結婚と離婚を経験している。同氏の著書『私の話』によると、安定を求めての結婚だったようだ。結婚が失敗した筆者の経験から「結婚とは理想でするものじゃありませんよ」と書いているようにも思える。

 桐野夏生氏は解説で3話目を家族を舞台にした作品のサイドストーリーと捉えているのだが、私は、むしろ1話目を、結婚に関する後2話のプロローグのように読んだ。

 私は離婚どころか結婚もしたことがない。自分の将来を捨てて、あるいは過去の努力をチャラにしてまでも結婚したいと思ったことはない。正しい選択を捨ててもいいと思えるほど異性を愛したことがない。

 私は、自分から女性を好きになって告白をしたことがない。逆をいうと、好きになってもいないのに、なので振られるのが判っているのに、告白をしたことがある。かつて、私が犯罪を犯したこと自傷行為と指摘した読者の方がいたが、これこそは、まさにそうだったと自分で思う。

 他人を好きになる「才能」がなかったのかもしれないが、少なくとも、正しい道を歩こうと思うことを上回る愛を感じ取れなかったのは事実だ。そして、合理的な生き方をしようとするのが苦しくなったとき、そういう愛がないのは、やはり辛いなと思う。正しい道を歩こうという気持ちが強すぎるのかもしれない。