身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

自分の存在を無に終わらせないようにするため(鷺沢萠『さいはての二人』を読んで)。

さいはての二人

 昨日のエントリーをアップして、自分で読みながらマズいな… と思い、同日に急いで同書を読み直して、これを書いている。朝の苦痛による疲労から脱却するためにコーヒーを飲み、頭が痛くてロキソニンを齧っていたら、今度は胃が痛くなりセルベックスを服んでいる始末だ。

 さて、今日のエントリーは、タイトルからし鷺沢萠氏の言葉である。高校の教科書に載っているというエッセー『「私」という「自分」』の1文だ。「大望」という宗教の雑誌(天理教のようだ)に発表された文章なので、少し道徳的である。機会があったら取り上げるが、既に瓜ヶ谷文彦のFacebookページで取り上げたので、お急ぎの方は、そちらを参考されたい。教材として全文が読めるPDFのURLも記載してある。

 いつもながら、鷺沢萠作品を読むと力強いメッセージが感じられ、その力強さが、私は好きだ。例えば『バイバイ』という作品がある。これなども「いい嘘なんてない」というメッセージだけで成り立っている小説である。これも確か、そういうタイトルのエッセーがあったはずだ。さほど大したことがないメッセージを長々と書かれて嫌になることもあるけど、そのメッセージの力強さを保ちながら最後まで書き切る鷺沢氏は凄いと思う。

 さて、表題作『さいはての二人』。冒頭に「朴さんが死んだ。」とあり、朴さんというのは在日朝鮮人だ。それを語っている主人公もアメラジアンである。鷺沢氏は自分が朝鮮人の血を引いていることを知り、そのために韓国に留学までして人種差別には一家言持っている。しかし、登場人物たちは不幸に立脚しているものの、その不幸とは、決して人種差別に端を発するものではなかった。

 この本を買うきっかけになった、Facebookの彼女のファンページに抜粋してあった文章が、ひとつのテーマではあるだろう。

 人間は馬鹿な上に、毎日生きていかねばならない。

 もし神様みたいな存在がどこかにいるのだとしたら、まったくひどい罰を下したものだ。きっと馬鹿であるという罪にたいして下された罰なのだろう。お前たちは馬鹿だ、ゆえに生きていかねばならん、と。ずるずるずるずる、ありとあらゆる重くて醜いもろもろのものを引きずりながら、けれど生きていかねばならん、と。(角川書店版・98ページ)

 鷺沢氏は35歳で自殺している。このFacebookのファンページは「故人」鷺沢萠について書かれているので、まぁ、鷺沢氏が「重くて醜いもろもろのもの」から逃げたかったのだろうな… という推測が入っているのだろう。そもそも、誰が運営しているのか、よく判らないページである。

 登場人物の共通点は、貧しく、家族に捨てられたり、愛されなかったことだ。外国人の血が入っているということは、その一例として扱われているに過ぎない。親に感謝できない主人公は、自分の美亜という名前が“美しい亜米利加”という意味だと朴さんに言われて泣いてしまう。「ずっとずっと、それを誰かに言って欲しかったのだ、と思った。」自分は生まれたときは愛されていたのだと実感できたのだ。続きは話が重いしネタバレになるから書かない。

 短編『約束』。主人公は、生まれて初めて負わされた責任を果たす。そして『遮断機』。これも、主人公は、よく頑張ったと言われて生きる決意をする。これらの一連の作品から私が感じる筆者からのメッセージは、生きることの重要性、他者との関係の重要性である。

 昨日のエントリーに書いたように、私は、もう何十年も死んだほうががマシと思っていた。いや、今でも、昨日の朝のようなときには、そう思う。実際に自殺未遂もした。でも死ねなかった。人間は「毎日生きていかねばならない」のなら、それを有意義なものにしろ、鷺沢氏は、私に、そう訴えているように思える。

 最後に、このエントリーのタイトルにした文章を含む1文を『「私」という「自分」』から引用する。私は「生に対する未練」はないけど、それでもやっぱり「自分の生が無に帰すのが怖い。」そして、この文章こそが、生きているからには読んで書かねばならないと思う理由である。気持ちが揺らぐたび、私が読み返す文章だ。

 私は死を怖れる。生に対する未練がある。多分それは自分の生が無に帰すのが怖いせいだと思う。

 そうならないようにするため、自分の存在を無に終わらせないようにするため、私は精一杯に他者を思い、他者を愛す。少なくとも、そうあるように努める。

 そして、他者を思い他者を愛し、自分の思いをできるだけたくさん他者に伝える、ということが、私にとっては冒頭で言った「やらなければならないこと」なのだ。