身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

階級的憎悪感。

 昨日は、夜、寝床に入ってから妙なスイッチが入ってしまい、ろくすっぽ寝ていない。眠れなくて本を読むが、眠剤が効いているから中身を覚えていない。かたや昼は昼で反動で寝てしまった。

 眠剤が効いていると自分でも何をしているのか判らない。昨日、もうすぐ葉桜忌だと書いたが、その前日あたりにメルカリで「文藝」2004年秋号を買っていて、すでに届いていた。恐らく鷺沢萠が急逝したので臨時で小特集が組まれたのだろう。

 眠剤を服んでからダラダラと読んでいたのだが、表題の言葉だけが記憶に残っていた。この言葉が出てくる文章は永江朗氏の「京浜工業地帯文学」という解説である。

 その解説に出てくる作品群を、私も、ある種の“憎悪感”を持って読み、そのことは、このBlogにも数回、書いている。今回のことで、ちょっと、その嫌悪感を是正しなければいけないな… とも思うので、このエントリーからはリンクを張らない。

 永江氏の文章には『スタイリッシュ・キッズ』に出てくる「金持ちのガキ」は大学1年生にしてプジョー205を持っていたとあるが、当時、私が書いたBlogのエントリーに目を通してみると、『ユーロビートじゃ踊れない』の同世代の登場人物もフォルクスワーゲンサンタナに乗っている。

 私は、この固有名詞の扱い方について1エントリーにしているのだが、もうひとつ、永江氏が読んだ作品には、電車がなくなったからタクシーで帰る高校生というのも出てくるそうで、高校生どころか48歳の私は今でも渋谷から歩いて帰る。

 永江氏は、彼女自身にも、そういうイメージが付いたことは「誤解である」と知ったという。彼女が尊敬する小関智弘氏という作家という「補助線」を引くことで、判らなかったことが見えてきたという。そこに映るのは京浜工業地帯が成長から転落に転じる時代と重なるからだという。

 私は、これらの外車を転がして夜中まで遊び呆けている高校生大学生に対して、その生活がいつまで続くのか、それで将来に不安はないのかということを1エントリーで書いた。それを、永江氏は、小関氏の話を聞いて、次のように捉えるようになったそうだ。引用文をもって、本エントリーの末文とする。

 私が階級的憎悪感をもって読んだ『少年たちの終わらない夜』の子供たちも、『スタイリッシュ・キッズ』の若者たちも、今あらためて読むとちっとも楽しそうではない。それどころか、「もうすぐ終わってしまう。急がなきゃ、急がなきゃ」とでも呟いているように、何だか浮足立っている。そこには生の充実感のようなものはない。この手で世界の中心に触れている、という実感がない。スタイリッシュなキッズたちは、単に消費社会のなかで踊らされているだけだし、終わらない夜を過ごす少年たちも、楽しくてしかたがないから遊び続けるのではなく、他にどうしようもなく途方に暮れているだけだ。彼らを支配しているのは、階級を滑り落ちていく不安ではなかったのか。(永江朗著「京浜工業地帯文学」「文藝」2004年秋号所収)