身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

死ぬに値すると思う波乱万丈の人生。

 こんなことばかり書いているが、苦しくて死ぬことばかりが頭を占めている。今日も、のたうち回っていて、起き上がったのは午後6時だ。一昨日は商店街の祭りに行けたのに、苦しさに加え体調の変動の激しさで疲れてしまう。ちなみにタイトルは、中学の同級生から「波乱万丈の人生、よく頑張って生きてる」というLINEを貰ったことから。

 あと、昨日、ネット配信でTVドラマ「きみが心に棲みついた」を観終わったからかもしれない。向井理さん演じる星名漣が、最後の方で練炭自殺をしようとするが、それまで死ななかったのが不思議だった。そして、今後、何を希望にして生きていくのだろうと、他人、しかもフィクションながら心配になり眠れなかった。親近感を覚えたのかもしれない。みんな犠牲者…。

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 精神科のクリニックで知り合った近所に住む同い年の学者が、Twitterで、いちばん勉強しなくてはならないときに統合失調症で勉強ができなく未来に影響したと嘆いていたが、脳の変性による病気なら、変な言い方だが、まだ諦めようがある気がする。

 私など、専門学校で全優の成績を収めて、ぜひ大学に行ってくださいと推薦まで貰い願書も出し合格したのに、家族に入学金を払わないという騙し討ちをされた。さらにいうと、教師のイジメと親の虐待で高校も辞めていて、そこから大検を取って這い上がったのだから、その裏切りは只事ではない。LINEを貰った同級生によると、中学時代から「波乱万丈さ」はあったというが、長くなるので省く。

 私は翻訳者か編集者になるのが夢だった。文学に関わる仕事に就きたかったが、創作能力が皆無であることは自覚している。しかし、子供のときから国語の成績(だけ)は良く、読解能力には自信があった。逆に英語の成績は学年でも下から数えた方が早いというより最下位に近かったが、自分では、逆に、そこまで成績が悪いことが疑問だった。

 神田外語に入ったのは、単位が大学互換で大学への編入ができ、また、大学で原書が読めるようにという思いからだ。英語が苦手な私が神田外語に入ったということに驚く友人が多かった。よく志望したねということと、良く受かったねという両方の意味があったろう。

 ここでも1人、神田外語なんて誰でも入れるんでしょと言った同級生がいたが、我々のころは私立の中堅を日東駒専と言ったが、それよりも低い大学の夜間部に高校推薦で入り、1ヶ月で中退している。それ以来、親の金で酒を飲んでいて47歳にして定職に就いたことがない。他の同級生に、私が言われたことを話すと、その時点でグループチャットからもブロックされていたそうである。

 さて、神田外語は成績別でクラス分けをするのだが、全20クラスあるうち、上から4番目のクラスに振り分けられた。やはり高校の成績は不当評価だったのだと思ったのだが、しかし、成績が悪い事に正当な理由もあった。

 基礎が、まったく判らないのだ。単語は覚えればいいとして、文法が判らない。それに発音記号が全く読めない。これも下のクラスに入れば(20クラスが5クラスづつ4階級に分かれている)基礎から教えたのにと思うと、成績が良くて良かったのかどうか。

 神田外語では教材としてイギリスの国語の教科書を使っている科目もあり、国語の勉強となれば水を得た魚である。猛勉強をして、見る見るうちに成績が上がった。ただ、英語ならではという勉強はしていないので、今でも私は発音をカタカナで覚えている。社会に出て判ったことであるが、英語を話す人たちから見れば、どうせ我々はガイジンなので、さほど発音は求められない。

 なんか楽しい専門学校時代を思い出して浸ってしまったが、専門学校で2年間も積み上げてきたのに、いきなり大学に行けなくなったときには奈落の底に突き落とされた気がした。就職活動もしていないので、学校に泣きついた。成績が良いのに大学にも行かなければ良い会社にも入らなかったと文句を言われ、渋々、赤坂にある海運会社に押し込んでもらった。

 学校が、この会社を紹介したのを渋った理由が、入社して判った。今でいうブラック企業だったのだ。会社からタクシーでワンメーターのところに住んでいる私は、新入社員という賃金の安さと交通費の安さで、毎日、タクシー帰りだった。

 専門学校から、私は、実家を追い出されて麻布にある叔父の家に住んでいた。大学に行かせないというのも叔父の意見で、勉強など嫌いなものに決まっているから、朝から晩まで机に向かっているのはボーッとして何もしていないに決まっているという主張からだ。先入観が激しく、私の成績表など目に入らない。それに、私には大学に行かせると言っているので、私は自分の成績が評価されていると信じている。

 そのときと同様に、叔父は、会社が新入社員に残業などさせるわけがない、六本木で遊んでいるに決まっていると断言した。これも順当に考えれば新入社員に六本木で夜遊びしてタクシーで帰る金などない。

 遊んでいるのだからと専業主婦以上の家事をさせられた。本当に寝る間もなく、倒れて病院に運ばれたこともあった。幸い、会社はブラックといっても体質そのものはブラックではなく、簡単にいえば機械仕事を手作業でやっているようなもので会社自体がオーバーワークで、暇な時期には業務時間内に病院に行けた(出勤していないとマズいからと重役室で休まされた・笑)。

 私の仕事のメインはタイプを打つことだった。まだ複写式の書類が多かったといってもインパクトプリンターが主流の中で、手でハンマーを打ち付けるタイプライターを使っているのは如何なものかと思うが、書いたような会社である。機械式のタイプライターであるから、同じ文章はメモリー登録しておくということもできない。

 その結果、私の手は腱鞘炎になり水を抜いた。今でも覚えているのは、医者に、みんな痛がるのに平然としていると言われたことだ。外科や内科で、意外と平気だと驚かれることがあるが、味わってきた精神的苦痛に比べれば屁みたいなものだ。

 それでも叔父は手を緩めず、私は鎌倉に死にに行った。なぜ鎌倉なのか、自分でも良く判らない。小動岬が呼んだのかなという気もする。しかし、由比ヶ浜の民宿に泊まったら、経営者にも近所の人にも良くしてもらい、死ぬ気が失せた。そして、家に電話をするのも何なので、会社に電話をしたら、責められもせず、すぐに戻ってこいと言われた。

 会社には親と叔父が来ていて、上司は、すでに彼らから話を聞いていたようである。私から仕事内容などが、きちんと報告されていて、良好な家族関係に思えるのだけどなと言われた。向こうとは別に、私は理解を得ようとする努力はしていた。

 そして、叔父の家を追い出された私は、当時は港区といてっても場末の場末だった、今の高輪ゲートウェイ駅前に投機用の6畳のワンルームマンションを借りた。バブルの余韻が残っていて、ゴミ捨て場の目の前だから特別に安いといっても家賃は7万円以上した。深夜に帰ってきても、暴力団が暴れたりして休まらなかった。

 そうこうしているうちに、麻布の叔父の家が駄目になった。駄目になったというより叔父が駄目にしたという方がいいだろう。私が引っ越してきたときから、ガス器具には全てシールがされていて使用禁止になっていたし、荒廃して窓も閉まらなくなっていた。これも、私が手を入れて修復していたのに、また私の努力を無にされた気がした。

 その前後に会社を辞めた。もう、精神的にいっぱいいっぱいで、何がどういう順番で起きたのか、自分でも、よく覚えていない。当時から日記を付けているのだが、20冊もあるので、スーツケースに入れて部屋の奥に放り込んである。これも、会社からは幹部候補として取ったのにと文句を言われた。

 失業保険が降りている間に次の職をと思うが、そんな状態で仕事ができるわけがない。せっかくアルバイトで念願の出版社に勤め始めたのに仕事が回らない。自殺未遂をしたのは、このころのことだったか。当時は人が死ねる薬が平気で処方されていて、溜まったのか貯めたのか、私は、なけなしの薬を服んだ。そして、子供のことなど気にしない親なので、1ヶ月、発見されなかった。

 このときも、医師に、良く死ななかったと驚かれたものだが、大きな後遺症が残った。親は、手術の立ち合いに遅れて医者に怒られたくせに、五体満足に生んでやったのにカタワになりやがってと私を罵った。出版社もクビになり、私は、何のために生きているのか判らなくなった。

 それから最近まで、また、記憶が曖昧である。なぜ体重が60㎏から120㎏になったのか、なぜ、綺麗に暮らしていらっしゃいますねと言われていた部屋が汚部屋になったのか、なぜ、毎日、のたうち回っているのか。私がクズ医者と呼ぶ前任の担当医のことは、まだ最近のことなので少しは覚えているが、それでも汚部屋の一因となった収納ボックスは、彼に勧められて買ったのだと、他人に言われて思い出した。

…ここまで書いて、文章に結論が打てないことに気が付いた。結局はタラレバの話なのだが、どうして、こうも悪い方にばかり転ぶのだろう。しかも、それは、ほとんどすべて、外的要因である。最後に、1文を引用して終わりにする。

どうして、どうして自分という人間は、こんなふうにいつもいつも、自分が行きたいほうとは全然違うほうへいつの間にか運ばれてしまうのだろう。
 ふつうの仕事をして、ふつうの家庭を持って、ふつうの日常を送る。気に喰わない上司に媚びへつらって、ごくたまに飲んだくれて醜態をさらすことでそんな憂さを晴らして、長いものには巻かれ、杭を打たれぬよう頭を引っ込め、尾尻を振って大樹の陰に寄る。目立ちすぎぬよう気を遣いながら、「平凡だがささやかな幸せ」と呼ばれる種類の他人からはちんけに見えるかも知れないものを、後生大事にして日々を暮らす。ーー他の多くの人々がやすやすと手に入れているそういうものを、自分が手に入れられないのはなぜだろう。

鷺沢萠『祈れ、最後まで』(竹書房「祈れ、最後まで・サギサワ麻雀」194ページ)