身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

逆境は人間を弱くする。

 鷺沢萠の命日に買った『過ぐる川、烟る橋』より。

 ーーー第三条 逆境の中にいてこそ男は強くなれる。

 反射的に、嘘だよ、と心の中で呟いてしまってから、そんな自分の行為に対して自嘲めいた冷笑を洩らす。

 逆境は人間を弱くする。そうして、そんな弱さがさらなる逆境を呼び込むのだ。運の悪い奴はどこまでも下向きに、運の良い奴はどこまでも上向きに行くようにできているのだ。

 

 今、私はどん底にいて、まさにこの通りだなと思う。

 私は小学生のとき四谷大塚お茶の水校舎に通っていて、成績は学校で主席だった。といっても開成などには到底入れる成績ではなく、早慶クラスなら大学から入りなさいと言われ、中学受験はしなかった。

 中学では出来のいい転校生が1人入ってきたので成績は2番であったものの、学区内で最も難しい千葉県立東葛飾高校に入れるだけの成績は余裕で取っていた。それを、茨城にある江戸川学園取手高等学校というところが「息子さんを絶対に東大に入れてみせます」と母親を洗脳し、特待生として自分の学校に入れた。東大なんか入っても付いていけるわけがないし、当人としては、まったく行きたくはない。

 江戸川学園取手高校は毎週のように校内で放火があり、数ヶ月に1度は教員が逮捕され、挙句の果てには校長が部下の教員を即日クビにして不当労働行為で業務命令を食らっているような高校だった。私も、その、のちの校長の不当な体罰(顔が気に食わないという理由で1時間だけではなく丸一日授業に出さず廊下で正座)で精神を病み退学することになる。(上記のリンクのPDFファイルを見ると生徒に自殺者も出しているようだ。)その前の校長も自分の業績を称える銅像を敷地内に建てたりしていていた。

 それでも大検を取り、専門学校神田外語学院へ進んだ。いきなり成績が良いクラスに入れられてノートの取り方も判らず、1年の1学期は隣の女の子にノートを借りるような有様だったが、そこでも、やはり主席になった。

 何度も書いているが、当時、内風呂がなく銭湯通いで、麻布仙台坂上の叔父の家から神田駅前まで自転車で通っていたが苦にならなかった。勉強の楽しさの前には、そんなものは屁でもなかった。

 朝から晩まで机に嚙り付いて勉強をしていた。そもそも子供のときから子供らしい遊びをさせてもらえず、勉強くらいしか楽しみを知らなかった。成績は優に飽き足らず秀を弾く教科も出てきた。入学したときに取った良を入れても、平均をすると全優を超えるまでになっていた。

 高校のときの英語の偏差値が30だったのに神田外語に進んだのは単に神田外語大が併設されているからである。神田外語に入学した段階で、どうせ高校と同じように辞めるんだろと言う親には神田外語大に進めなかった時には学費を返すという約束をしていた。

 それが首席である。むしろ学校の方から、どうしても進学してくれと言われた。そして、無事に入学の手続きをしたのだが、親は、全優の成績に目もくれず、勉強など嫌いなものに決まっているから家に机に向かっているのは何も考えずにボーッとしているに違いないと始まった。

 この辺が私の家族のキチガイたる所以なのだが、だったら、最初から、そう言って就職活動をさせればいいのである。それもさせず、入学手続きまでさせて、ただ入学金だけ払わない。そして大学に進学できないのだからと就職の面接に行こうとしてもスーツも買ってくれない。

 こんなこともあった。就職して会社に年金手帳を持ってきてくれと言われた。親に年金手帳を出してくれと頼むと、年金制度など破綻するからそんなものは掛けるなと言われ、会社に、そのままを伝えて大目玉を食らった。成人式の案内状も隠して見せてもらえず、成人式当日は自室に監禁されていた。

 結局、スーツもなく就職できた会社は、学校が渋々、斡旋した残業は月に200時間を超える海運会社(乙仲)であった。学校には、こんなところに入れるために教育したのではないと言われた。実際、次年度には丸の内にある商社に転職させてくれたりもしたのだが、そのころには、また精神病を再発して、如何ともしがたくなっていた。売文の仕事も何本か持っていたが、それも失った。

 結局、私は家族という癌に恣意的に逆境に追い詰められた。いかに努力しても、努力させてくれない家族がいた。そして、自分たちは私を虐げておきながら毎月のように旅行に行ったりしているのである。なんか、ぼそっと池井多さんのBlogみたいになってきたので止める。