身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

人間は酒で変わる(と鷺沢萠著『指』)。

海の鳥・空の魚 (角川文庫)

 昨日は結局、酒を飲んだ。おかげで落ち込みは、だいぶ良くなった。しかし酒を飲んだときの快楽というのは覚えていて、人は、こうしてアル中になっていくのだなと思う。

 私の高校の同級生で、けっこう仲が良かった奴がいる。私は高校を退学しているので知らなかったが、卒業生のメーリングリストがあり、そこで、女子生徒に面会を迫ったりしたらしい。

 私は、よほど弱い人間でなければ、人間というものは簡単に変わらないと思っているが、みんなして、彼は変わったという。私もFacebook時代になり繋がるようになったが、酔って絡む。完全な言いがかりである。電話も架かってくる。本当に彼は変わった。人間は酒で変わる。

 しかし、私は特別な理由がなければ酒は飲まない(注・付き合い酒は理由に入る)。これは自分にも、このBlogの読者の方にも誠実に生きるために自分に誓ったことである。前回はヒューマンダストの域に入ったけど、今回はヒューマンダストで終わらない。

 さて、Google Analyticsの画面を見ると私のBlogに「鷺沢萠」と併せて「指」というキーワードで検索している人が、けっこういる。指って何だろうと思って自分で検索してみたら作品名だった。

 「指」は短編集『海の鳥・空の魚』に収録されている作品である。この本について書こうと思ったとき、非常に迷った。今でも迷っている。解説や感想を書くべき本ではないと思ったからだ。それに大好きな作品なので私の変な感想で台無しにしたくはない。

あとがきから引用する。

神様は海に魚を、空には鳥を、そこにあるべきものとして創られたそうだが、そのとき何かの手違いで、海に放り投げられた鳥、空に飛びたたされた魚がいたかもしれない。エラを持たぬ鳥も羽を持たぬ魚も、間違った場所であえぎながらも、結構生きながらえていっただろう。もっとも、そこにあるべくしてある連中に比べられば何倍もやりにくかっただろうけど。

 もう、これにすべてが書かれている気がする。場違いな場所にいながらも、それを受け入れた者たちの物語である。それは「生きながらえる」ための術というより、諦めや運命として受け入れているという感じである。

 以前、「柿の木の雨傘」というタイトルを見て、そういえば、この本を読んだなぁということを書いたが、20編入っているうち、せっかくなので検索されている「指」を取り上げる。文庫本で8ページの量なので、本文からの引用は、できる限りしない。これは常々書いている、一部を引用すると内容を損ねるという考えから。

 例によって私の主観の入り混じった要約とも呼べないもの。海辺のガソリンスタンド。赤いアウディに乗ったカップルが来る(私の世代だと赤いアウディ80というのは、ある種、オシャレな金持ちの象徴)。服装も相応。ライトが壊れている。無料で直してやる若い社員(スタッフ)の物語。

 教科書に採用されていて、その社員が「突然、油の染みついた自分の黒い指を酷く憎らしく思った。」のは何故かと問うているらしい。これを模範解答とされる惨めさの象徴と捉えるのは、少し浅はかな気がする。だったら、なぜ無料で直してやる? アウディに乗っている女性も主人公には優しいではないか。それに、そんな簡単なことを表すのに、作家はいちいち心理描写などしないものだ。

 そう考えると、この社員は、アウディに乗っている方の世界の人と自分がいる世界の違いについて考えただけかもしれない。憎しみとされるものは、ただ単に、その2つの世界の間にあるものの違いだ。只で直してやったのは、別に羨ましくてもないけどな… という気持ちの表れのような気がする。そう思っていても惨めさが頭をもたげたんだよといわれれば反論できないけど。

 ちなみに群ようこさんが解説を書いているのだが

彼女は苦労や悩みが顔に出ていないから、お嬢さん育ちで、のほほんと生きてきて、ふんふんと鼻歌まじりに小説を書いていると思っている人もいるようだ。しかしまだ二十四歳の彼女の心のなかには、たくさんの痛みが隠されている。それは同年配の人の何倍もの蓄積である。

とある。以前書いたが、彼女は真っ直ぐに愛されて生きてきたと思っていた。彼女が「途方もない」(『途方もない放課後』タイトル)とか、「人生の中で『もっとも』という形容詞を付けることのできる期間」(「フェアウェル・パーティー『町へ出よ、キスをしよう』所収、同書「贅沢な午後」にも似た表現あり)という青春の話や上3人の姉の話などを読むと、独りっ子で暗い青春を過ごした私は、素直に、いいなぁと思ってしまう。

 しかし、彼女の20代半ばにして力強い言葉は、どこから出てくるのか。彼女は私より4つ上で35歳のときに自殺している。若くして自殺しているのだから、さぞかし楽しい人生だっただろうという自分は、やはり浅はかだった気がする。でも、はやり生前に会っておきたかった人のひとりだ。

 そして再び本書に戻り、鳥でも魚でもない自分を何とかせねばなぁと思っている。