身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私を嫌いだった父に、唯一、感謝していること。

 母から電話がある。死んだ叔父の預金を引き出すために、叔父と母の両親(すなわち私の祖父母)の戸籍を集めているのは書いた通り。それに対して、資産が何千万円もあるなら話は別だが、どうして100万円の貯金を降ろすのに、そんな手続きが必要なのかとゴネる。金額の大小ではない。私には一銭も入らないのだから、だったら自分でやれという話である。

 そして、家に来ても父親に線香も上げて行かないと言われるのだが、私にとっては、そんな義理などない。物心ついたときから、お前など嫌いだなどと言われて育つというのは、今になると嫌な体験をしたものである。叔父・母と一緒に私を置いて遊びに行ったんだから、せいぜい、3人で収まってくれという感じである。

 そんな中、ふと、拝読させていただいているBlogで、高校生は原宿・渋谷で遊び、成人して銀座・新宿・六本木デビューなどという話を読んで、松戸育ちながら、この辺の感覚が解るのだけは父に感謝している。当時、父の勤めは原宿のキラー通りにあり、あの風俗を見ておいた方がいいかもしれないな… といって、原宿・渋谷に行く交通費は惜しまなかった。

 松戸といっても千代田線からの直通電車しか止まらない駅の沿線に住んでいたので、そのまま、表参道駅まで出て、スパイラルなどで美術展を見て、原宿や渋谷に向かうのが、小学生時代の私の休日の過ごし方になった。中学時代になると美術やファッションへの興味は増し、まだベルコモンズがあったころの外苑前まで足を延ばすようになった。前田真三さんの丹渓で、あの三菱パジェロも見た。

 小学生のころ、友達に東急文化会館(現・渋谷ヒカリエ)のプラネタリウムに連れて行って欲しいと頼まれた母は、なぜか弁当などを持たせてくれて、食べるところがなくハチ公前で食べ、高校生のお姉ちゃんに、美味しそ~などと言われたのも、よい思い出だ。帰りに原宿のタレントショップなどを見たような気がする。

 それから高校が茨城になり、精神を病んで外出どころではなくなる。酷い高校で、私を追い詰めた教師は生徒に2名の自殺者を出しているとのこと、私は殺されなくて良かったと思う。サディストというか、そういうことに愉楽を覚える異常性質であったのは事実だ。ある精神科医に言わせると、子供のときに虫取りに行って獲った虫を惨殺するのと同じ類だそうである。

 そして精神を病んで実家を追い出され、私は麻布にある母の実家から専門学校に通った。バスで1本なので、大好きな渋谷にも行ったはずなのだが、あまり記憶がない。そういえばギャルなる民族がいたなという程度である。他方、六本木は歩いて行ける距離だったので記憶にある。不良外人に声を掛けられたと思ったら専門学校の外国人教師で、ディスコ帰りだという。六本木は、さすが日本、治安がいいねなどと言っていた。

 ディスコとというとジュリアナやマハラジャだけがメディアで取り上げられていた時代だったので、地方から出てきた学生は、それらを連想して外国人教師の話に言葉をなくしていたが、この2つのディスコは異常だったと思う。メディアといえばTV「トゥナイト」で乱一世さんというレポーターが独特の切り口でレポートしていたのが面白かった。

 マハラジャ鳥居坂下の、今でいう都営大江戸線麻布十番駅前にあったのだが、当時は、まだ新一の橋と呼ばれ、麻布十番に駅がなかったので、六本木から鳥居坂を通って蟻のような行列ができていた。あのマハラジャのハニートーストを出す店は、まだあるはずである。

 他方、ジュリアナは、今の、広尾から移転した(のも最近知った)愛育病院の隣にあった。こちらは、もう少し年齢層が上の女性が遊びに来ていて、会社帰りに田町の駅でボディコンに着替えるので、田町の駅が混雑するという状態だった。田町は昔から会社が多くて、迷惑顔のサラリーマンを覚えている。

 今、鷺沢萠作品にド嵌りに嵌っているが、これらの風俗を知っているといないでは、理解に雲泥の差がある。風俗といえば、教科書に採用されているという『指』にアウディが出てくるのだが、アウディ80が流行った時代を知らない小学生に、あれを読ませたところで、その部分は描写を盛り上げるものにはならないだろう。

 しかし、あまりに身近にあったために、渋谷より六本木だった私は、早々に銀座に遊びに行っていた。ちなみに、冒頭に引用した、新宿と銀座というのは、早稲田と慶應の最寄りの繁華街ということである。さて、銀座であるが、太宰治が通ったルパンとともに、クール、トニーズなど、まだ文壇バーなるものが残っていた。作家という人たちに憧れていた私は、そのうち、トニーズというバーに通うようになった。

 トニーズのマスターは、文字通り、松下安東仁(アントニー)さんという。お姉さんがいて、お姉さんは松下エリザベス典子といった。エリザベスなのでベティさん(年配のおっ客さんにはベッちゃん)と呼ばれていて、本人も、そちらの方ばかりで呼ばれているためか、いただいた手紙には差出人が典子になっているものや紀子になっているものがあり、正直、本名は判らない。

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 この姉弟の御尊父はキリスト教の宣教師で、戦時中、投獄されていたときの補償金で、最初は人形町で店を始めたということである。ベティさんの方は、クリスチャンとして、酒を供する店をやることに反対したらしい。

 私が通い始めたのは学生のころだった。当時、麻布の仙台坂上から神田駅西口商店街にある神田外語学院に自転車で通っていた私には、銀座通りというのは通学路である。学校で英語の判らないところがあるとトニーさんに訊いた。今では考えられないことであるが、この店は女性ひとりでの入店は禁止(馴染みになると1人でも入れる)、トニーさんが気に入らないと客を追い出すという店で、私のようなワカゾーの入店が認められていたのは異例のことだったそうである。

 トニーさんが亡くなってからであるが50周年の会が開かれ、そのときの招待状のメンツが、これである。若気の至りという言葉は好きではないが、人見知りの私が、よく、こんな店に行っていたもである。発起人の1人、三枝栄治さんというのはトニーさんの愛弟子で、この人は、そんな私を快く思っていなかった。今は近所で"Tosti"というバーを営んでおられるが、数回、行ったきりである。

トニーズ・バー五十周年の会

 

 初任給で、私は丸善で万年筆(パーカー・ソネット)を、カメラのきむら(現在はカメラのキタムラに吸収)でカメラ(コンタックスT2)を買った。喜び勇んでトニーズに持って行って撮ったのが上の写真である。トニーさんはコンタックスTをお持ちとのことで話が弾んだ。英文学のこと、ファッションのこと、彼から学んだことは、無粋な父よりも多いのは当然として、下手な学校教師よりも多い。

 しかし、私は、通っているクリニックが渋谷にあったり通勤が逆方向になったせいで、今度は渋谷のバーに行くようになる。新宿の国際電話会社で、当時は埼京線が恵比寿どまりだったので、行きはバスに乗ったものの、帰りは恵比寿から歩いて帰った。白金に引っ越して数年といったところだと思う。

 当時は、外で飲むこと自体、数ヶ月に1度だったが、コレオス(コレヒオ)に行った。古い人には、109の上にバーがあったのを覚えている人がいるだろう。バーなのにキャッシュ・レジスターが入っていることが、妙に新鮮だった(明細は、すべて「飲み物」なのだが…)。

 このころ、半年で体重が倍増し、もう、メンタル的にも、訳が判らなくなっていた。当時はベゲタミンなど、今では考えられない強い眠剤が平気で処方されていたのだが、それを飲んでから恵比寿のバーで飲み、立ってられなくなり、タクシーを止めようとしたら、そのとき揚げたての重みで転んで怪我をしたりした。学生時代から使っているお気に入りの時計も、そのとき、壊した。

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 そして病に臥せった後、復職したのが丸の内の光学機器メーカーだった。そして、再びトニーズへ通うようになる。その会社に転職したと言ったら、専務が常連だそうで、私が、その話をした次の日、専務がコピーを取ると託けて私の部署に来た。秘書が慌てて、私がやりますと言っていたのを、ただ茫然と見ていたのを覚えている。

 そんな状態だから、もう、精神は壊れていたのだと思う。私の記憶は、ところどころ抜け落ちているが、このころの記憶もなく、トニーさんが亡くなったというので慌てて店に行った記憶がある。そのとき、ベティさんには、昔は親のことを嘆いて、毎晩、泣いていたと言われたが、それも記憶がない。

 最後に行ったのは、トニーズが閉店する、かなり前だと思う。三枝さんの後、あまりセカンドのバーテンダーには恵まれなかったトニーズで、今でもトニーズと同じ場所で"T.O"を営業している越智卓くんがバーテンダーとなり、引退したがっていたベティさんを説き伏せて営業していたとのことである。私も、そんなときに1回だけ行ったことがあるが、性格も体格も変わってしまった私を見て、ベティさんが、精神を病んだ人って、みんな、そんなになって、そんな体形になってしまうのねと嫌な風に言われたことがショックだった。

 そのショックでということはないのだが、もう、丸の内のメーカーも勤まらなくなり、トニーズの閉店にも、ベティさんの葬式にも間に合わなかった。それから外で酒を飲むことがなくなり、もう、ウィスキーの産地や特徴もカクテルの名前も出てこない。この前、渋谷の、これもコレオスから独立した福島寿継さん(ちなみに私と同い年)の店「カプリス」で飲んだときなど、タンカレーという名前すら出てこなくて、あの、緑色の瓶に入ったジンを… などと言う始末である。

 ちなみに私の父はビール1杯飲んだだけで真っ赤になって気分が悪くなる人だったので、一緒に酒を飲んだことがない。それでも母と叔父が楽しく盛り上がって酒を飲んでいて、私も酒を飲みながら話を聞いていたりすると、疎外感から無理して飲もうとして、すぐに気分を悪くした。

 そう考えると、父には、町遊びの自由を許してくれたことだけではなく、酒が飲めなかったことにも感謝をしなければいけないのかもしれない。