身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

ストレスフル(サイコパス・ネットストーカーの恐怖)。

 昨日、ほとんど眠れなかった反動で、今日は午前10時まで寝た。活動量計で睡眠などを計測しているのだが、普段は何度かある「目覚めた状態」がゼロ。

 しかし、起きて物を食べようとしても戻してしまう。昨日のサイコパス・ストーカーのことで古い資料が出てきて(本当に精神状態が最悪で魚拓を取ろうという頭も働かずWebページをコピペしたものがあるだけ)なおさら胸糞悪い。

 しかし、そんなものに囚われているのは… という意見を読者から頂いたので、できるだけ本来の記事を書くようにしたいと思う。でも飲んでいるかも。飲んでいなければ鷺沢萠著『指』(「海の鳥 空の魚」所収)と人の温もりについて書いています。

f:id:urigayatsu:20190518114722j:plain

 

 飲めば治ると思ったのですが酒も吐いてしまいました。駄目ですね。それでも飲みます。しかし鷺沢萠さんは健全な環境で育ったことが伺えて羨ましい(酔っ払いの戯言)。

 

 やっぱりヒューマンダスト。酒浸りになっています。同じネットストーカーに対抗するBlogの管理人から、ストーカーより下記のコメント投稿があったとのこと。まさに私のBlogを炎上させたBlogのコピーです(特別開示いただいたのでコピペです。)

投稿者 本人です。
メールアドレス make60_0814@yahoo.co.jp
URL -
IPアドレス 126.224.70.72
日付 2019/03/17

ここで大胆な仮説を考えてみました。
彼の文体(特に言い回し)から伺えること。
次の文章に着目しました。
久米宏久米明の息子だと言って効かないこともあった」(原文ママ
この文章から彼が言いたいことは、「世間では当たり前のことを間違って信じている人」というのことのようです。
この言い回しは彼の人物描写に頻出のものですが、今回出てきた例えは” ? ”なわけです。
例えに非常に奇妙な印象を持ったのです。
噛み砕いて言うと、解りづらいのです。
ところが、書いた本人は至極当然のことを書いている風です・・・。
自分の中では当然のことなのですが、他人には解りづらい表現をする。
この屈折の中に彼は潜んでいるのではないか、と。

そして、今回も出てきましたが「自分は興味がないとか、やりたかったわけではないのに、やらされてみると、云々」のフレーズ(例えば、幼少の頃のピアノのレッスンのエピソードや、県立高校の受験、東大進学等など)。
こういったエピソードの落ちは必ず、「まともな人間のやることではない」になるのです。
もちろん、ここでの“まともな人間”というのは彼の言う“まともな人間”です。

以上、2点から言い得ることは、常に自分視点であり、その自分視点を“一般化”して表現する癖なのです。
さらに常にネガティブな評価に落ち着くことです。
ここから私の仮説へは少し飛躍があるのですが、彼はこのようにして自分の記憶を書き換えて生きてきたのではないか。
そうやって書き変えた記憶が常にネガティブになるのは、その反対、つまり本当は生きたかった人生のあるべき記憶の変形ではないのか、と。
すると、彼の悪口は、本当は自分に向けられたものではないか。
それがあまりに悲惨であるため、本当は自分で下した自分への評価を他者に転嫁しているのではないか、そして、そのように読まなければならないのではないか、と考えたのです。

今回の体験記から私の着想が浮かんだものは先のピアノレッスンのエピソードの落ちである、次のような独白でした(「麻生倶楽部」のエピソードに酷似)。
母に聴くと、ピアノをやりたいと言いだしたのは自分からであったと言われた、ということ・・・。
もしすると、県立高校受験も、東大進学の話しも、本当は自分から言い出したのではないでしょうか!
しかし、現実はことごとく失敗してしまう。


(以下は私のフィクションです)彼は悪し様に書いていますが、父は公務員であったとのこと、住んでいるところも高級と言って良いエリアです。そして、それなりの資産もあった様子。
親の期待を背負って、また、それに応えようと賢明に生きてみたものの、残念ながら自分の出来は決して期待に添えないものであった。
彼の心は、そういう自分を許せなかった、あるいは受け入れられなかった。
故に、そう生きたかった人生の記憶を自ら作り出した。
しかし、現実は現実、どこかで辻褄が合わなくなります。
そのギャップを埋めるため、他者を悪者にすることで僅かに自分の正当性を示そうとした。
彼の書くという行為は、このどうしても埋められないギャップ、つまり辻褄合わせという解決しない、解決し得ない問題の半ば永久的な代償行為ではないか、と考えられます。
だから、彼の文章は何度でも幼少時代に戻り、連連と綴られます。
何故なら、元々解決しない、解決し得ない辻褄を合わせるためには細部を無限にリアルに描かないと現実性を失うからです。そして、そこに寸分の隙もあってはいけないのです。そうしないと“嘘”になってしまうからです!
そう言われることを彼は何より恐れているのかも知れません。


彼の文章を読んでいる過程で、私は“アダルト・チルドレン”という言葉に再会しました。
これはアカデミックな世界では余り高い評価を得ていませんし、私の学んだカウンセラーの学習では取り上げられなかったトピックでした。
でも、親に基本的承認や基本的愛情を受けなかった人が背負う苦しみというものは、かくも無残で悲惨なものであることを、彼の体験記を通じて共感を深めてくると、在り得る概念ではないかと思います。
親の基本的承認と言い、基本的愛情と言ってみたところで、何が解決の糸口かと問われれば、今の私には何の答えも用意がありません。
そして、彼はそれでも書く行為を続けてくれるからこうして解ったようなことをかけるのであって、彼がそれを止めてしまえば、もはや共感のしようもないわけです。

私に出来ることは、彼の文章を私なりに誠実に読み込み、私なりの解釈を試みることだけです。
彼がこれを読み、自らの文章を顧み、書くという行為の生産性に思いが至ってくれればと願うだけです(書くという行為の生産性と

 訳が判らないので要約すると、自分の解釈が広く世間の解釈と思われているはずだ、自発的にピアノを習ったり東大受験をしたのに「悲惨」な結果に終わったので親のせいにしているといいたいようです。資産があったとか何だよ? という感じ。

 

 例えば上に書かれている「ピアノレッスンのエピソード」というのは、こういうことです。

元エピソード

ピアノを習わされた、しかし母は自分が習いたがっていたと言う。音楽を聴く家ではなくピアノが何かも知る年でもないのにあり得ない。

私のBlogを炎上させたストーカーのサイトでの解釈

母が言うのだから自分でピアノを習い始めたのだ! それを母に指摘されたから、それは母のように普通の人間(ここでの“まともな人間”というのは彼の言う“まともな人間”)がやることではないといっているのだ!

 すべてこんな調子です。一緒に暮らしたことがないのに、まるで見てきたように、しかも時には嘘の事実をでっち上げます。

  参照しながら書くのは面倒なので記憶だけで書くと、何度、久米明久米宏の息子でないと何度いっても聞かない人がいるので違うと言っただけで、ストーカーは上のように書きます。高校に東大を受けてくださいと言われただけなのに、ストーカーは私が東大に行きたがっていたように書きます(私は東大が大っ嫌いで進学したいと思ったことすらない)。すべて都合の良い「再解釈」です。

 

 手元に訴訟用の続きの控えがあります。

親の期待を背負って、また、それに応えようと賢明に生きてみたものの、残念ながら自分の出来は決して期待に添えないものであった。
彼の心は、そういう自分を許せなかった、あるいは受け入れられなかった。
故に、そう生きたかった人生の記憶を自ら作り出した。
しかし、現実は現実、どこかで辻褄が合わなくなります。
そのギャップを埋めるため、他者を悪者にすることで僅かに自分の正当性を示そうとした。

彼の書くという行為は、このどうしても埋められないギャップ、つまり辻褄合わせという解決しない、解決し得ない問題の半ば永久的な代償行為ではないか、と考えられます。
だから、彼の文章は何度でも幼少時代に戻り、連連と綴られます。
何故なら、元々解決しない、解決し得ない辻褄を合わせるためには細部を無限にリアルに描かないと現実性を失うからです。そして、そこに寸分の隙もあってはいけないのです。そうしないと“嘘”になってしまうからです!
そう言われることを彼は何より恐れているのかも知れません。

 懸命が賢明になっている程度の頭です。東京出身といいつつ麻布という地名を知らず、何度も出てくるのに、すべて「麻生」になっています。東京出身というのからして嘘の様子。

 私は別に親の期待に沿えないみじめな人生を歩んできたのではありません(そもそも親の期待している人生を肯定していない)。嘘もありません。文章もストーカーに書けと言われて書いたものです。

 しかし、ストーカーの方が、いかに「悲惨で無残」だったかを延々と書いています。「誠実に読」んだら絶対にできない解釈です。ストーカーの文章に

彼の書くという行為は、このどうしても埋められないギャップ、つまり辻褄合わせという解決しない、解決し得ない問題の半ば永久的な代償行為ではないか、と考えられます。  

とありますが、むしろストーカーの書くという行為は、私の本名や住所まで突き止めて晒して嘘を書き、私を陥れようという恐ろしい怨念が感じられます(ダウンロード保護してある私の顔写真をキャプチャーしてまで張り付けた)。

 

 これで私のBlogが炎上させられたときの恐怖を考えると。炎上させた時の快感が残っていて他サイトに再投稿したのでしょうが。まだ自分の書いた文章を取ってあって快感に浸っていると思うと怖いです。ごめん、立腹などで酒浸りにならざるを得ません。