身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

非文明的なものを残しておく重要性。

 このエントリーをアップする10分前に帰って、慌てて書いている。個人のBlogだからいいものの、新聞だったら整理(新聞社では編集・校正・校閲が1ストップで終わるので、併せて、こう呼ぶ)・組版というプロセスがあるので、完全にアウトな時間だ。

 組版といえば、活版がなくなって、印刷所は仕事が減りそうだが、新聞社・出版社は、かなり楽になったと思う。同じように、電子化されて書籍がなくなったかというと、電子化されてもなくならない。

 電子化されて書籍がなくなるのかというテーマについては、かつて、私は結構な論を興して賞までいただいたのだが、その結果については、現在の状況を見ると、私の論説は間違えていなかったように思う。

 他方、電子化により淘汰された機械的なものは何か。思いつく限り、写真などが、そうだろう。私が子供のときは、メカニズムだけでなくカメラ制御自体も電子化されておらず、ライカニコンなどのカメラにフィルムを入れて機械式シャッターにすれば電池がなくても写真が撮れた。

 しかし、そんな私でも、さすがに、これは電気がなければ無理だろうと思うことがある。出先でレコードの話をしたので、それからの発想だが、レコードプレーヤーなども、そうだろう。蓄音機は電気がなくても動くが、さすがの私も、その世代ではない。

 これに至っては、電気以外のことで動くのが信じられないが、エレベーターもそうだ。エッフェル塔など、開業時は、あの高さのエレベーターを水力で動かしていたという。

 しかし、今は航空機の離発着時以外でもデジタルカメラを使えるし、カメラではないが、同じ電子機器ということでは、携帯電話(スマートフォン)も病院で使うことができる。電池なしで、それらを動かそうとは思わないのではないか。

  問題は、それらが動かなくなったときのバックアップである。さすがに電気なしの録音というのは考えられないが、エレベーターが動かなければ階段が使えるし、まだ残っているのかどうか知らないが、活字を拾って手で印刷することもできるだろう。

 3.11のとき帰宅難民が大量発生して、でも、みんな、電車が動いていなくても家まで帰れるんだと、妙に感動した。別に、それをメインにしろとはいわないが、非常階段的に、そういうものを残しておくことは重要だと思う。