身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

自分という患者の中にある精神病への無理解。

 マズい。今日は通院で、昨日、読めなかった本を持っていったのだが、帰りにドトールで読み始めたら面白くて読み込んでしまった。私の頭が単細胞でできているせいか、重いテーマなので難しいと嫌だなと食わず嫌いをしていたのだが、非常に判りやすくて面白かった。難しいことを簡単に書けるようになりたいものだ。

 以前、あるイギリス人に、有くんの英語は安易で判りやすいよね、と言われたのだが、単に私は難しい表現ができないんです、"get accostomed to"と聞いたときにドキッとしたよと言われたのだが、それも、日本では受験で習うんです。

 他方、私の主治医の日本語能力には疑問に感じる。判りにくいというより細かいニュアンスが伝わらなくて、つまりボキャ貧なのだと思う。なので、どういう言葉を使ったかより、コイツは何を言いたんだと考えて、それを頭に入れるようにしている。

 彼がどういう言葉を使ったのか忘れたが、ネット民というのは不健全というか、そういうことを言いたかったのだと思うのだが、そこまで細かいニュアンスを受け取ろうとすると私の貧しいCPUの量子化処理が追い付かないので、単にネット漬けは良くないと受け取った。

 1日に1回は外に出て身体を動かす習慣を作りなさいというようなことを言われて、私自身、その重要性は既に実感している。昔から作家が散歩を日課にしているのを見て、あぁ、机に向かっているだけでは良いものができないのだなと見て取ってはいた。

 しかし、東京という有名人密集地帯では、何度も顔を合わせていると私をストーカー扱いするタレントがいる。お前、そこまで売れているのか、自意識過剰だろうと思う。しかし、複数の友人に週に1回は私を渋谷か銀座で私を見ると言われ、あまりブラブラしているのも問題かなとは思っている。

 なんか外に出たら気分も開放的になって、書こうと思ったこととは話が別の方向に行ってしまった。出掛けるまでは、昨日のように煮詰まって何も書けないと思っていた。本当にヒューマンダストだなと思って、その原因について考えていた。やっぱり外出は重要。

 

 このエントリーのタイトルは、外出する前の、その、家で煮詰まっていたときに付けたものである。何もできない自分を責めながら、できない理由ではなく、なぜ自分を責めてしまうかを考えて付けたタイトルだ。

 私は正真正銘の精神病患者だ。正真正銘でない患者はいるのかというと、かなりの数がいる。自分は病気だという自覚がない、すなわち病識がない患者と、逆に、健康なのに病人を装う、いわゆる詐病である。

 私の中学の同級生に弁護士をしている人間がいる。私が親に色々とされていて、しかし、誰に訴えても相手にされなくなったとき、唯一、最後まで相手にしてくれていた人物だ。くれていた、と過去形なのは、ついに彼にも愛想を尽かされたからだ。

 彼のことについては改めて書くとして、精神を病んで死ぬほど辛いというのが判らないという。彼は元々、交通事故をメインに扱っていたのだが、俺のクライアントは激痛が走っても這ってでも打ち合わせに来るのに、精神を病んで外にも出られないというのが理解できないという。

 理解できないと言われたところで、私に、それを納得させさせる文学的才能などないのだが、最後に会ったとき、最近、地下鉄に乗れなくなって自転車で移動できなくなったと言っていた。これが、精神病というものの立ち位置を象徴していると思う。

 また別の友人の話だ。この友人は大人になってから、Facebookのコミュニティーグループで知り合った友人で、私より年上なのだが、彼は逆に、私に同情的である。精神病に罹ってみて、薬で体調が良くなるということに驚いたそうである。

 作家の星新一先生の作品に、宇宙人にさらわれた経験がある人物同士しか話が通じないという作品(作品名は忘れたが作風からすると『ボッコちゃん』時代か)がある。星新一先生はご近所にお住まいだったのだが、これも、彼の、そういった経験からできた作品のようだ。

 私自身、自分の病気を自分で100%理解してはいない。鬱病に罹ってから長いのに、鬱病で気力がなくなるということを知ったのは、実は十数年前だ。それまでは苦しいだけで、できないできないと思っていたものが、やる気さえもなくなり、ついに人間として駄目になったかと思った。

 当時の主治医(DSM翻訳者のひとり)に、これも鬱病の症状だと言われたのだが、他の症状が出ている“正真正銘の患者”であると思っていた私でさえ信じられなかった。実は自分も、弁護士をしている友人と、さして変わりがない。

 詐病する人というのは、どーせ判らないんだからと逆手に取っている感じだ。風邪だと嘘を付いても発熱や炎症もなくウィルスも検出されないとなればバレるけど、精神病なら、そういう“物証”がなくても病気だと名乗れる。

 つまり、厄介なのは、頭の中では存在を理解できるのに、それを五感で理解できないという、まるで原子の世界か天体の世界にしかないようなものが、一般人が暮らす日常生活の中に、しかも病気としてあるということだ。

  私の場合も、まったく精神的に健康という極端な考えはないものの、その根拠は、薬で気分が変わったから程度のような気もする。そして、それゆえに、すべて病気のせいにするのは詐病のようで嫌だというところがある。

 正直いって、できないことの、どこまでが病気のせいで、どこからが自分の努力が足りないからで、どこからが才能不足なのか、自分でも把握できないのだ。加えて私は自分を信じていない。なので、やるだけのことはやったと、自分で胸を張れないのだ。

 病気の症状が出ていなかった学生時代は、全力を尽くしたから結果が満足のいくものでなくても悔いはないとか、努力不足で、知っておくべきもっと適切な表現があったのに知らなかった(冒頭の"get accostomed to"と真逆)などということがあったが、そこに、病気という要素が入っただけで複雑化している。

 なので、本当は病気でできないのに、自分の努力が及ばないのではないのかと思っているのかもしれない。繰り返すが、今の私は、自分が全力を尽くしていると信じることができないのだ。

 ここまで考えると、自分に自信が持てないことも病気のせいという気さえする。病気という1要素が加わっただけで、まったく、どこまでが何のせいか、皆目、見当が付かなくなっている。

 そして、ここのところ苦しんでいるのは、本当は病気のせいでできなかったことも、自分のせいだと思っていたのではないかと思い至った次第だ。

(あぁ、結論を急ぎたくなかったのに時間がない。)