単なる夏バテではなく鬱。
昨日、ものすごく疲れたと書いたが、どうも鬱のようだ。北杜夫先生は躁のときに安請け合いしてしまった講演を鬱のときにしなくならなくてはなり酒を呷って演壇に立っていたと聞くが、精神病が職業病ではないかと思える作家という人々は、鬱のとき、どう対処しているのだろうか。
今朝、起きたら、単なる鬱というだけでは表現できないような鬱を感じる。鬱を感じるという表現も難しく、以前、書いたが、まったく気力を失くすという鬱は30歳を超えて初めて体験した。それ以前は、罹っていない人にもファミリアな、落ち込みといえる鬱だった。
最近の鬱というのは、どちらでもなく、かといって絶望とも違い、よく判らない感情なのだが、しかしそれは鬱なのだなと確信できる。精神病の苦しみを表現するというのは自分にとっての課題だと思っているが、なかなか難しい。起きてしばらくして、その感情はなくなったものの、食欲がなく、無理して食べる。
そして、ネット配信でTVドラマを観ようと思うが、イライラして観られないのではなく、興味が湧かず、ただぼんやりと眺めている感じだ。この前、読んだ英語の本に"seeing without watching"という表現が出てきたのだが、まさに、そんな感じ。この時点で鬱だと気が付けという感じなのだが、諦めが付かず小説を引っ張り出してきて横になって読んでも登場人物が把握できない。
もう、何もできないのなら外に出ようと、とりあえず、連日行っている、あいはーと・みなとへ。引き籠りがちにもならないので、さらに鬱だという自覚がなくなり、銀座までもバスで1本なので帰りに遊んでいこうかと思って「銀座百点」のコラム集などを持ってきたのだが、それすら身が入らない。幸い、イラッと来るような利用者はいなかったのだが、それでも話は上の空。
早めに帰るという人がいたので、私も一緒に帰ってきた。10年以上、浜松町の駅前に来たことがないと言ったら付き合ってくれた。例によって私はカメラを携えていたのだが、あれ? 写真を撮らないの? と驚かれて、そこでやっと自分が鬱だと自覚できた(こういうときに「エモくない」って使うの?)。銀座に寄るどころの騒ぎではない。
今、再びTVドラマを観始めたのだが、第何話まで観たのかも判らない。話が繋がっているのか繋がっていないのかも判らない。鬱による判断力の低下と同じベクトルの方向を持っている気がして、あぁ、鬱なのだなと思う。今日は、この程度にしか文章をまとめる能力もなく、結論もなく、内容の割に長い文章になってしまった。
P.S. 浜松町は、貿易センタービル・立ち飲みの「秋田屋」・家電量販店「デンキの森」が残っていて、あまり昔の印象と変わらなかった。