身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

恐怖。

 今日こそは軽妙なものを書こうと思ってネタを用意しておいたのだが、恐怖に襲われていて、それどころではない。かつて、得も知れぬ恐怖と書いたが、私は、きっと自分が犬死にするのが怖いのだと思う。

 人間として生まれたからは幸せになりたい。人生をエンジョイしたい。そして、人間は他者との関係で生きていると思うので、誰かに理解してもらいたい。それらすべてのことが叶わないので、そのような恐怖に襲われているのだと思う。

 実家で相続の手続きをしているが、相続税の申告に税理士を使おうと母に提案をしても、また、自分が父の遺産をそのまま使い続けるのだから申告など不要なのだと始まった。

 そして、実家に不動産会社から私の家(私と母の共有名義)を売れと電話が架かってくる。私が出ると、お母様に息子さんの電話を教えてもらうことになっていると言うのだが、母は、そんなことは言っていないと言う。逆に、私が不動産会社に変な電話をしていると私を責める。

 おそらく不動産会社が私に言われたなどと言って電話をして、年寄りを狙った詐欺まがいなものだと思うが、死にたい気持ちに追い打ちを駆ける。現実を額面通りに受け取って対策を講じるということができない。

 

 少しは我に返ったので、こんなエピソードを。家から本を1冊、持ってきた。小説を持ってこようかと思ったのだが、まとまった時間が取れそうにないので、ここのところ読み込んでいる鷺沢萠『この惑星のうえを歩こう。』こんな表現が出てきた。

「英語を話すこと」を目的とした専門の教育機関できちんと学習したわけではない私が喋る英語は、正直に言ってかなりお粗末なものだ。

 しかし、作中に出てくる英文を読むと、よく、即座にこんなものが出てくるなぁと思うものが多く、大手を振って神田外語卒といっている私が、ちょっと恥ずかしい。他方、筆者は、そんなところで迷うのかなと思うところで迷っていたりする。

 実は、私に海外経験がないのは、自分の英語が通じないという自覚があるからだ。私は精神に病気があり、状態を日本が離せない医者に理解させる自信がない。肉体的なものだって、鈍痛なのか激しい痛みなのかを伝えることができない。

 これも、やはり、自分が理解されないことへの恐怖である。英語の"making oneself understood"って的を得た表現だなと思う。しかし、外国語って難しいよなぁと思うのだが、この本の中の「ああ! 外国語」という章の中で、日本語も難しいという話が出てくる。考えてみれば、我々は活用形が5つもある言葉を普通に喋っているのだ。

 

 実家の1画だけで老人ホームが3軒もあると思ったら、こういう事情らしい。過疎・高齢化の進んだ小金原の町というのは、けっこう侘しいものだ。

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