身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

自分がヒューマンダストで終わることの恐怖。

 今日も正午まで起きられなかった。1週間ほど前から、朝、起きられない事態が発生して、実家に来たことも、ちょっと環境を変えてみようという気持ちもある。

 別にどこに通っているわけではないが、朝の6時ごろ、起きなければと思う。普通の人が学校や会社に行くために起きなければと思うのと同じだ。

 前日、遅くまで仕事をしていたのなら判るが、前日は、きちんと午後11時には寝ているのだ。そして、先日までは朝の7時には起きていた。それでも1日に8時間、寝ているのだから、普通の人に比べれば贅沢である。

 しかし、起きなくてはと思ってから実際に起きられるまでの6時間の苦悩というのは、なかなかのものだ。鬼気迫るといっていい。

  私は、かつて、区の精神障害者支援施設に通っていたことがある。そこには、生活保護を受けて朝から晩までゴロゴロしている人たちが沢山いた。

 彼らは、酒を飲んだり家族旅行などに行っているのだから最低限度というのはどうかと思うが、最低限度の生活がいい、努力しないことが幸せだといって憚らない。しかし、話すことは、他人への嫉妬で溢れている。

 もちろん、そうでない人もいて、就労支援を受けて社会復帰していく人もいるのだが、そういう人は、とっとと就職して、いなくなっていく。私は、その施設には通わなくなった。

 これは、あくまで私個人の考えである。人間として生まれたからは、幸せになるのが使命だと思っている。そのためには努力をしたい。

 私は就労移行施設に通うには少し障害が重かったが、それでも、自宅で、朝、きちんと起きて身体を動かし机に向かい、夜更かしをせずに寝ている。

 それが最後の砦という気がしている。会社勤めもできず、仕事をした充実感も幸せになるための原資となる金も稼げないのだから、せめて、それくらいはという思いがある。なので、起きられないということは、会社に間に合わない以上の意味を持つ。

 私は、幸せになりたい。それは、今まで、そして今が幸せでないことの裏返しであるが、簡単な言い方をすれば、何が楽しくて生きているのかという日常を変えたい。

 先日、コーヒーなど淹れれば安いのに買ってくるなんてと近所の人に言われて傷ついた旨を書いたが、それも、何となく、努力を否定された気がしたからだ。

 私は努力をしている。少なくとも自分では、そう思っている。そして、同時に、他人の言葉に左右されやすい。

 なので、私は、努力をしていると他人に認めてもらいたい。他人に努力していると言ってもらいたい。これが、何の結果も出ていない自分にとって、自己満足で終わっていないと確信できる唯一の拠り所だ。

 

P.S. 実家で久しぶりに母の料理を食べている。ヌタなんて、自分では、絶対に作らない。そして、実家に来てから便通がいい。美味しい料理を食べて健康になる、これも、また幸せである。そのためには、料理をしなくてはならない、これも努力である。

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