身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

家族の終活。

 母の弟である私の叔父の希望で、叔父と千葉県松戸市にある私の実家に行くことになっている。ちなみに私の家の家族構成は89歳の父と85歳の母、76歳の叔父、46歳の私だけで、他に親戚縁者はいない。叔父も私も独身で、結婚したこともなければ子供もいない。

 墓は、都営八王子霊園(八王子市内ではあるが高尾の隣町だ)に母方の祖母の墓があるだけで、叔父が、そこをどうしようか考えている様子。母方の墓なので、名前も母方の苗字になっている。松戸には都営八柱霊園という霊園があり、同じ都営霊園の権利を持っているのだから移せば? と助言したのだが、八王子霊園の方が良いという。ちなみに実家から都営八王子霊園まで片道3時間近くかかる。

 若いころの叔父は変人に近い破天荒さだった。私が学生時代、1日中机に向かっていられるのは密度が薄いことをしてボーッとしてるからだと言って全優の成績を取ったのに大学に行かせてもらえなかったのは、たびたび書いた。

 しかし、その当時、叔父も失業していた。どうやら、私が机に向かっているというのは、昼間、こっそりと私の様子を見に家に戻ってきていたようだ。今日はビジネスマン風とか言って背広にアタッシュケースを持って出掛けたり(もともと営業マンなんだけど)今の主治医に言わせても「ヘンな人」だ。

 私が南麻布の仙台坂上にある叔父の家、すなわち母の実家で暮らすようになったのは、私が高校を辞めたことで世間体が悪いと言われて松戸の家を追い出されたからである。そこで出会った叔父は既に「ヘンな人」であったが、引っ越したときも大変だった。

 東京市第○大区・第○小区という家屋調査票が取り付けてあったので、少なくとも明治には建っていた家だから(寺の門前の参道を挟んで建てられていた長屋のような建物なので江戸時代からあったらしい)仕方がない面もあるのだが、私が引っ越そうとしたときには家は荒れ果てていた。

 屋根の瓦は、ほとんどなく、トイは落ち、畳も抜けかけていた。引っ越してきたときは土間だったという台所はシステムキッチンになっていたものの、ガス会社に使用禁止という封印(シール)がされていた。私が住む部屋も、両親が2日がかりで掃除をして、やっと住めるようになった(それを見ていた私は手をこまねいて何もしなかったのだが)。

 叔父も、掃除をする私の両親を見ながら、どうしていいか判らないようで、手持無沙汰にヤカンを磨いたりしていた。叔父に会うのも10年ぶりくらいだった。電話も止められていたので連絡も付かないし、六本木や広尾に用事があるときに寄ってみたのだが、居たこともなかった。電話は、私と暮らし始めたので引き直したが、私が家を出たら、再び料金滞納で、回線自体、取り上げられてしまった。

 それでも母は、弟だからか、気にはしていたようだ。私が不在だったと言うと、会社には行っているようよと言っていたので、会社に連絡はしていたのかもしれない。幼い頃、母に連れられて叔父の会社に行った記憶が、かすかにある。

 独身の叔父が、同僚に仲の良い女の子がいると言われ、母が安堵していたのを覚えている。事務職だった私からいわせると、営業と事務がはバディなので仲がいいのは当たり前である。それをいったら、私は丸の内の同じ商社のエリートビジネスウーマンを妻としているはずである。

 そして、私が叔父の家に住み始めたとき、叔父は完全に失業状態だった。話を聞くと図書館で暇を潰しているということだった。失業保険の給付条件を満たすために、数社、就職の面接には行っていたが、叔父ならではの要領の良さで、すでに就職は内定していたらしい。

 時間の感覚は判らないのだが、叔父は駐車場管理のアルバイトをしていた。座っていることが仕事のようなもので、金にならない仕事だけど考えがあると言っていた。その考えを言わないのが、叔父の変人たる最大の所以である。私の場合も、自分の考えも言わず、願書を出して大学に合格してから学費を出さないという…。

 まぁ、学生時代にバイトをして遊べと散々に言われたのを勉強が忙しいので断っていたから、その時点で、勉強=嫌なもの、という公式がある叔父には、覇気がないと思われていたのだろうが、なぜ、それを説明しないのか、それ以上に、なぜ就職活動もさせないのか、イミフである。

 そして、叔父は、すんなりと芝の増上寺に勤め始めた。私は自転車で通勤・通学していたので前を通るのだが(学生時代だったかサラリーマン時代だったかは覚えていない)朝の7時に、ちゃんと制服を着て髪の毛をセットして仕事をしている叔父がいるのだ。駐車場でバイトしながら裏で動いていたという話を聞いたが、これも、叔父のことだから、詳しくは言わない。

 そんな叔父も、歳のせいか、けっこう軟化した。私が退去したことで、麻布の家が、再度、朽ち果てて暮らせなくなってからは、叔父は賃貸マンションで暮らしていたのだが、なぜか私は住所を知っていたから、教えてきていたのだろう。そこから転居した今の都営住宅の住所も知ってるが、私も精神状態が悪かったので、どうして知ったのか、まったく記憶にない。

 叔父が住む都営住宅は、2回、訪ねた。叔父は営業マンだったので、当時としては珍しい携帯電話を持っていた。これも、010の時代から持っていて、名刺には携帯電話というだけでなく、DoCoMoとまで書いてあった。後に、年上の友人に聞いた話だと、IDOなどとキャリアの名前を書くのは当たり前だったそうだ。まぁ、その時代から番号を変えずに持っていたのである。そして、その回線は途絶えたことがない(だから固定電話はなくても良かったのか)。

 その電話に架けても、もう何年も通じないのである。家の電話はないので、連絡を取るのには、直接、行くことしかない。そして、行ったときの顛末は過去に書いた。読み直してみたら、あまりにもザックリとしか書いていなかったので、リンクは張らないが、家賃2万5千円、管理費500円というのがポイントである。

 これも、叔父らしい用意周到さでポイントを貯めておいたのかと思ったが、なんと1回で当たったのだという。今まで家賃をいくら払っていたのか知らないが、田町か浜松町の駅前で、当時は場末だったといえど山手線と京浜東北線の駅前だったから、それなりにはしたはずだ。

 そして、叔父は急に“マトモ”になった。葬儀費用が幾ら、自分が死んだ後の、ここの処理費用が幾ら、何々が幾らで、〆ていくら必要だ、などと言う。金があればあるだけ酒を飲んでしまっていた叔父の性格から、そんなものは貯められっこないと思っていたのだが、行ったときには、貯金通帳を見せて、ちゃんとあるだろう、と言う。

 言ったとおりの金額が入っていて、私は少なからず驚いた。根っからの酒飲みなので(糖尿病で足の骨が壊死して手術しても飲んでいたくらいである)酒は飲んでいるようだが、ここでも、私は驚いた。ゴミ箱を見るとビールの空き缶が入っているのだ。今までの、酔えばいいとパックの日本酒を飲んでいた叔父からは考えられない。

 それから、今後のことを話し合うため、一度、私の両親と会いたいというので、実家に行く次第だ。八王子霊園の墓も、母方の家の墓なので、絶対に父親には入れさせないと息巻いていたのだが、それも、話し合いたいそうだ。しかし、親に死なれたら、いちばん困るのは私である。叔父は、失業した期間があるのに年金はシッカリ受給しているが、私が受給している年金は障害基礎年金だけなので、親から仕送りを受けている。

 本当は障害厚生年金も受けられたのだが、当時の私には、そういう知識がなかった。しかも、親は社会保険労務士なのに障害基礎年金も知らないし、私が受けていることが不服なようだ。区に相談しても、生活保護がありますと言われるだけだし、そういう不安が、もう目前にあるのだなと思うと、実家に行くのに気が重い。