身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私の話 Part 1

 「身の上話」として、幼少のころから人生を辿るように書こうと思ったのだが、記憶というのは時とともに薄れていくものだ。そこで、現在、自分が置かれている状況から書いていこうと思う。タイトルは鷺沢萠作品より。

 9月25日、東雲に住む叔父が、自分が死んだときのことで話があるから一緒に私の実家に行ってくれというので叔父の家に行った。私の親族は、両親と、母の弟である叔父の3人だけだ。

 叔父の家で一緒に書類を見る。自分が死んだときの始末の金として、いくばくかの保険金を掛けてある、受取人はお前になっているからと言われて保険証券を受け取った。それで話は終わると思ったのだが、私の両親が住んでいる、松戸にある私の実家に行くという。

 松戸の実家では、墓の話をする。父の係累はおらず、母方の墓が高尾にある都営八王子霊園にある。それを、叔父は、本人曰く「いい加減なこと」をして無縁仏になりそうなところを、私の母が引き取って管理費を払っていたそうだ。

 そして、死後の話になり、八王子霊園の墓は母方の母だから父はどうするという話になった。そして、父は、散骨が良いといい、そんな話をして、その日は歓談をして酒を飲んだ。そして、その夜は泊って行けと言われ、私と叔父は泊って行った。

 翌日の9月26日、寝ていた私は隣の家のご主人の声で目が覚めた。眠剤で寝ている身なので、何か音がしている程度にしか思わず、また、近所の用事なら父が出るだろうと思っていた。しかし、誰も出る様子がない。

 私が寝ていた2階から、寝間着のまま下階に降りてみると、隣のご主人が、お父さんが心肺停止で倒れているのが見付かって救急車を呼んでいるから急いで来てくれと言う。行ったときには、すでに救急車が来ていて、私は救急車に押し込められた。

 母も一緒にと言われ、はやり救急車に押し込まれたが、本人にとっては、それは甚だ不本意だったらしい。病院でもブツクサ言っていて、足手まといにしかならなかった。どうしようもないので、叔父に電話をしてタクシーで来てもらった。

 ICUで医者が言うには、持って3ヶ月、それも寝たきりか、良くても麻痺が残るということだ。私の両親は、良くバカのひとつ覚えになるのだが、延命治療はするなということばかりを言い、カテーテル検査の同意書にサインをしようとしても、それは延命治療の同意書だからサインをするなと言う。

 その日、病院で、泊って行かれますかと言われ、あぁ、先は長くないのだなと思った。そして、私の携帯電話は、絶対に出られるような状態にしておいてくれと言われた。それなのに、叔父は暢気なもので、帰りに乗っていたタクシーを待たせて酒を買った。その間にメーターが2,000円跳ね上がったのを覚えている。

 叔父は私の部屋に何十回も泊っていると言い、私の部屋で寝た。私には兄弟がいないから、寝床は両親と私の3つしかない。父は昨日、母の横のソファーに寝ていたようだ。それ以上に、私は、文字通り門扉も開かず門前払いされていたのに、叔父は、その間も何回も私の家に泊まりで遊びに来たのを知って立腹した。

 翌日の午前2時前、私は携帯電話の音で叩き起こされた。病院から電話があり、30分で来てくれと言う。私は叔父と母を叩き起こしたが、叔父は、お前、ベッドから落ちただろうと笑っているし、母は、身支度などして、かなり待たされた。実際の時間は2時間程度だと思うが、とにかく長く感じた。

 病院に着いたのは午前6時で、すでに父は亡くなっていた。それを見て、母は、容態が持ち直したようだなどと言っている。この人は、前日、医者に言われたことも覚えていないようだ。しかし、それで、急いで家を出てこなかったのを納得した。死亡時間は午前6時3分となった。

 病院では、急いで葬儀屋に電話をして遺体を引き取ってくれと言われた。私は物心ついたときには祖父母は全員、他界していたし、他に親戚もいないので葬儀の経験もない。叔父を頼ろうにも、好きにやれと言う。

 市立病院だから市の指定業者なのだろうか、葬儀屋の一覧表と、それと不十分だろうからと電話帳を渡された。最初は大手のところに架けたのだが、料金が明確ではない上に、基本料金からして高い。他の大手のところも、遺体の保管と葬儀と葬儀場は別の係になりますと煩雑だ。

 結局は、隣の駅の個人の葬儀屋に決めた。実家の近所にも葬儀屋があるのだが、母は近所は嫌だと言い、叔父も、それに同意したので、少し離れた場所にした。他を当たってから決めていただいていいですという言葉と、明朗会計が決め手になった。

 葬儀屋は、すぐにやってきた。いつなんどき電話が架かってくるか判らなくて、それから急に忙しくなる仕事も大変だなと、自分のことよりも葬儀屋のことを案じた。棺桶がストレッチャーの横に付けられ、葬儀屋と看護師と私で遺体を棺桶に入れた。

 看護師さんは、まだ若い女性だったが、私には、非常に精悍に見えた。凛としていた。預かっていた荷物を返してくれて、私が伝票と相違ないことを確認してサインをしたのだが、その荷物は、母が勝手に仕舞ったようで、その後は目にしてない。

 その看護師さんが記憶に残っているのは、きっと、病棟の外まで送ってきてくれたときのことがあるからだろう。私は、購入した身の回りの物を病棟に寄付したい旨を申し出たら、後から追いかけてきて、これは高価なものですからとシェーバーを返してくれた。そのときに、あ、この人は頭が切れる人だと思った。

 その日も、叔父は、懲りずに酒を買って、酒盛りをした。不謹慎なと思いながら、私も飲んだ。どんな気持ちで飲んだのかは覚えていないが、飲んでも、その次の日の葬儀の段取りで、意外と頭はフル回転していた。

 翌日の葬儀は午前10時前からだったと記憶している。私は日記を付けていて、その資料としてライフログのようなものを付けているのだが、日記もライフログも空白である。葬儀屋が、朝、あまり早くてもといって、空いている時間の遅い方を取ってくれた。

 葬儀当日、9月27日の日記には、単に「松戸市斎場→実家→田町→家→実家」とだけ書かれている。葬儀は、粛々とという言葉通り終わった。私も叔父も、遊びに来ていたのだから、私など、真っ白なコットンパンツという出で立ちである。

 その後、実家に戻った後、通院日だったので、田町にあるクリニックに行った。特に主治医との会話は覚えていないから、おそらく、各段、感情がどうこうということはなかったのだろうと思う。この数日は雨が降っていた気もするが、それさえも覚えていないほど、てんてこ舞いだった。

(Part 2に続く)