身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

本は財産。

 図書館に行ってきた。といっても資料の貸し借りではない。借りてきた本を読もうと思ったら、ページが取れているのだ。オーマイガッ! である。直し方があるらしいので、図書館に返却しに行った。

 まだ読んでいないのに…。人気作家のせいか、今、読んでいる作家の本は、どれもヨレヨレである。同時に借りた46年前の漱石の本の方が、まだ丁寧に扱われている。

 どの本も、絶対に水をこぼしただろうというヨレ、コーヒーやチョコレートのシミ… これだけ大っぴらにやられるとは、本を大切にしようという気がないんだろうな。

 本を破損・紛失した場合、可能な限り同一の書籍で弁済することになっている(それを現金で徴収して、しかも購入していなかったのでTSUTAYA図書館が問題になった)。

 私が借りた汚損している本は、すでに絶版、古書市場でも値段が上がっている(プレミアが付いている)ものばかりだ。本は、大量に印刷されるものだけど、唯一無二のものという感覚を忘れたくない。

 

 ここで「身の上話」カテゴリーに入れたい話をひとつ。私の本棚には、約100冊ほどの本がある。文芸書が9割、芸術書が1割くらいだ。

 私が読んで、この本は自分の書棚に置かなければと思った本だけ厳選してあり、いわば「瓜ヶ谷選書」だ。

 だいたいが初版・初刷・帯付きで、新品で買っていて、自分が見出したということにも誇りを持っている。筆者に会いたいと思ったものには会いに行ってサインを貰っている。

 私の母は本を読む習慣がない。引っ越しのとき、段ボールに「文芸書①」などと書いておいたら、文芸書だってwwwと嘲笑う。

 そして、私の本棚を見て、こんな、一生かかっても読み切れないほどの本、と言って、すべて捨てようとした。

 自分に読書をする習慣がないからといって、吟味に吟味を重ねて残した、たった100冊の本を「一生かかっても読み切れない」と括って捨てようとするのは如何なものか。

 前にも書いたが、文芸書、しかも硬派な純文学を読んでいても、遊んでいると本を破り捨てた親である。読書しない人間には、読書は遊びだと映るらしい。

 実家にあった、現存するのは500冊ないのではないのかという本も(ついでにレコード全ても)すべて捨てられてしまった。今、私が読書が苦手なのは、読書させてくれなかったという背景もある。

 なぜ、公の機関が税金を使ってまで書籍を収蔵するのか。反面教師ではないけど、本の良さや重要性が解る人間になりたいたいし、本は大切にしたい。

 

P.S. なんか、世の中の色々なことに腹を立てている。私は、こうやって書いているしSNSの友達もいるけど、そうでない人が抱え込んで大量殺人とか起こしちゃうんだろうな…。