身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

駄目なら駄目なりに頑張る。

 昨日書いたように、私が活動できる時間は1日に数時間もない。決して注意力散漫なわけではないのに本など読めないし、眠剤を服んだ後に観るのでTVドラマも翌日には多くを忘れている。起きてすぐの朝の連続テレビ小説など、15分のものを3分割くらいして観ている。

 もっと長期的な目で見ても、読んだ本の内容など1年しないで忘れる。今は三浦しをん「あの家に暮らす四人の女」を読んでいるが、今、Amazonアフィリエイトコードを埋め込もうとしたら、古本で買ったと思っていたのにAmazonで数ヶ月前に新品を買っている。そんなことすら忘れている。

 この程度の本なら読めるが、もう、直木賞受賞作品ですら読めないのだ。どっちが上下とは言い難いが、上には上がいて、私から見ると下らないお笑い(ちょうど朝の連続テレビ小説「おちょやん」でやっている「古いお笑い」という奴ですね)は見るけれどTVドラマは観ないという人がいる。

 ただ、何が高尚かということは作品の難易度やジャンルでは測れない。児童文学、最近はヤングアダルトと呼ばれることが多いジュベナイルというジャンルや、漫画化した夏目漱石作品など、難しいものが読めなくても読める文学というのも存在する。

 私が感動した小説は、例えば村松友視著「作家装い」鷺沢萠「私の話」だったりして、私小説であるが男女がドロドロする話ではない。歪んだ恋愛関係や非道徳的な情事を書かなくても、そこに心を動かされる私がいる。

 そう考えると、私のようなダメ人間が書くことも許されるのではないか。小説作法のシも知らない私が書いていいのか、特に名を秘すがさる直木賞作家(村松ではない)に訊いたことがある。あなたには書くべきことがあると書くことを勧められた。

 私は自他ともに認めるダメ人間、鷺沢萠の言葉で「ヒューマンダスト」であるが、駄目なら駄目なりに頑張れば、それはそれで読んでくれる人がいるのではないだろうか。相手がダメ人間でもいいから他人の心を動かせるものが書きたい。そう思いながら私は自分なりに頑張っている。