身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私と同世代の在日韓国人の名前(鷺沢萠著『ビューティフル・ネーム』を読んで)。

※最近、読書感想文のネタを探しに来る若者が多いので予め書いておくが小説の内容については一切、触れていない。

 

 昨日は結局、軽くビールを飲んだ。それから他人様のBlogやネットの動画配信を見たので、あぁ、こんなコメントをしなければよかった思うことが多々。しかし、私の担当の訪問看護師、その辺に過剰なまでにシビアなのだが、酒に関して何かあったのだろうか。

 さて、それで熟睡ができた。起きるのは例によって昼になってしまったが、それから、コンスタントに本を読んでいる。今日は鷺沢萠『ビューティフル・ネーム』を読んだ。

 鷺沢萠氏は『私の話』の最終章で在日韓国(含む北朝鮮)人の現状について書いている。3章からなる同作品の3章目に在日韓国人について考えてもらう必要性を感じたというようなことを書いていて、本作は、そういう目的をもって書かれた本である。『私の話』に本名を名乗る人や通名を名乗る人、帰化する人、それぞれに考えがあるということも書かれていたので、その辺を掘り下げた作品ともいえるだろう。

 さて、私が生まれた麻布の仙台坂というところは途中に韓国大使館があり、坂を下ったところには韓国領事館があり、当時は韓国人が経営する焼き肉屋も多かった。麻布十番に本格焼き肉店が多いのは、そういう理由だ。また、現在、寓居が入っているマンションの1階も韓国人が経営する焼き肉屋だが、私が引っ越してきた前から、すなわち少なくとも四半世紀以上は商売が続いている。

 実は知られていないけど実は韓国人が経営する高級食材店もあり、韓国人を馬鹿にしながら、その店を勧めている芸能人がいると鼻で笑ってしまう。また、私が新卒で入った会社の同期にも北朝鮮出身の子がおり、美人でよくモテた。横浜の山手の高級住宅地に住んでいて、今、Googleマップストリートビューで見てみると、ベンツのEクラスと古いロールスロイスが置いてある。

 なので、私にとって在日韓国人というと、商才に長けた人々、というイメージである。鷺沢萠氏は『葉桜の日』に、そういう在日韓国人を登場させている。なので、『ビューティフル・ネーム』を読んだ後も、私には『葉桜の日』の方が親近感をもって(という言い方も変だが)接することができる作品だ。ただ、『葉桜の日』の登場人物は自分たちが在日韓国人であることを隠して生きてきて、そうでなくては生きてこられなかった理由というようなものに触れられている。

 恥ずかしながら、川崎の一部地域に貧しい在日韓国人が多数、住む地域があるということさえ、実はイイ歳になるまで知らなかった。松戸育ちの私からすると、どうも山谷のようなところを想像してしまい、そうすると、何か差別されてというより単に経済的に貧しいだけのように思える。

 私が子供のときも在日韓国人の人はいるにはいたが(もちろん、隠していた人たちは知らないが)、彼らはアメリカ人やフィリピン人などと同じように「外国人」という括りで捉われていた。在日何世という言い方は、実は鷺沢氏の本を読むまで知らなかったが、彼らは普通に日本語を話していたし、特に違和感を覚えたことはない。

 ただ、あくまでも捉え方は「外国人」なので、日本語の他に母国語を喋れるのが当然という思いがあり、そうでない人がいるというのも恥ずかしながら知らなかった。私が知っている同世代の在日韓国人たちは韓国語もベラベラだからだ。これも経済状況や在日何世という言葉と絡む事柄である。

 さて、標題『ビューティフル・ネーム』である。買ったまま放ってあったと思ったのだが、しっかりと以前に読んだ本であった。小説の傾向としては『ウェルカム・ホーム!』に近い。

 1編目の「眼鏡越しの空」、これは2人の女学生を通して語られた話である。どうマトメても私が書くと白々しくなりそうなので、あえて書かない。冒頭に書いたように、本作は内容については一切、触れない。鷺沢萠氏曰く「タッチー」な内容なので、底の浅い私には、まだ未消化であるからだ。

  2編目の「故郷の春」は、ある在日韓国人の青年の身の上話のようなものである。ストーリーではなく、在日韓国人が、どうして、その名前を使っているのかという解説書、みたいなものと思っていただいた方がいい。

 3編目は、3編の未完の作品が収録されているが、「眼鏡越しの空」を片付けてからにしようと思っているので読んでいない。ただ、上記2編が『ビューティフル・ネーム』という名で連作されていることもあり、ちょっと、そういう身近にいる在日韓国人の名前について考えてみた。

 私の子供のとき、周りにいた在日韓国人は、本名を日本読みしていた。例えば「李」さんは「り」と読ませていたし、「崔」さんは「さい」と読ませていた。それが、歳を取ることに、皆、読み方を母国語のものに変えた。また、通名を使うのをやめた人もいる。

 彼ら曰く、その方が自然だから。それは、本作『ビューティフル・ネーム』の内容にも通じるところがある。姜尚中氏って、先見の明があったんだな… と思った。私の友人たちも、もともと韓国の名が付いているので、彼と同様である。

 問題は、姓は韓国の姓なのに名は日本の名、というパターンである(崔洋一氏みたいな)。日本国内においては姓は韓国語読みして名は日本語読みということが可能だが、肝心な母国において、そうすると不都合であるということだ(本書所収「故郷の春」の主人公も、そうである)。
 国籍、名前、居住地、色々なものが関わる問題であるが、たった同じ作家の本を2・3冊読んだだけで、それについて私が何か言うのは止める。ただ、それが韓国のものであれ日本のものであれ、なるだけ元の文化に忠実である方がいいのかなと思う。ペ・ヨンジュン(裵勇浚)氏が「ヒ・ユウシュン」だったら、かなり雰囲気が違う。

 蛇足ながら、私の本名「有」という名は、英語だと"Yu"と書いているが、アメリカ人に「ユー」ですと名乗ると当然"You"と書くし(だったら「ヨー」さんは、どうなるんだろう)、ドイツ人など、発音できないので"You"とも書いてくれず"Ju"と書いて「ジュー」とか「ヒュー」とか読む。

 

P.S. ちょっと気になった1文

 小さいときから父親もいなくて、極貧の中で育って、「人間爆弾」目指して日本にやって来て、働いて働いて働きぬいて、それで最後に長いこと苦しんで死ぬ、っていうのは、なんかあんまりにも酷いですもんね。