身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

欺瞞に満ちたバカ常識人。

 昨日から、まだ怒っている。もう、これだけ腹立たしいことが続くと、どこまでが本当に怒っていて、どこからが八つ当たりなのか判らない。

 かつて、私が心臓が針の筵の上で転がされている思いをして起きられなかったとき、やっとの思いで300円の牛丼屋に転がり込んでも、親の金だと思うからホイホイと外食ができるのだと言われた。

 他方、私が初年度の納入金100万円近くを貯め自腹で大学に入ったとき、まさに親の金ではないから生半可な気持ちで大学に行ったわけではないのだが、「大学に行かなくても立派にやっている人は沢山いる」と力づくで辞めさせられた。

 昭和4年生まれなのに中学から私立に通っていた人間が言うから、なおさらチャンチャラおかしい。

 親が大学を辞めさせたことも、私の健康を思って無理をさせないようにしたのだと主張するバカがいるのだが、勉強は私にとって唯一の楽しみである。それをさせない方が、よほど無理をさせることになる。それに、無理をさせないようにするのなら、わざと留守中に上がっていって家の中を荒らして行ったり足を引っ張ったりしないだろう。

 そういう人に、親が部屋を荒らしていくことを説明しても、親は私の部屋を整理していってあげていたのだと主張する。何が判るのかというと、親は子供のためを思って動くというのは地球が回る如く自明の理だと言う。

 子供のためを思ってという両親に便乗して私を殴った千葉県警のクソ警察官は刑事罰に問われるべきだったと、今になっても思っている。この国では、親は子供を思うものという常識が存在すれば警察官がリンチをしてもいいのか。

 そういう事実を事実として見られない欺瞞に満ちたバイアスを持っている人たちは、例えばオウム真理教事件のときも、そんな子供じみた理由で人を殺したりするはずがないと言っていたりする。

 母のケアマネージャーもそうだ。これは、母がやっていることが私に不利益になっていることを知っていつつも、良かれと思ってやっているといって、これまた私を責める。昨日の実家の隣人から始まって、千葉県警の警察官、母のケアマネージャー、怒りの矛先は刺す対象をギラギラと探している。

 そして、これらの人たちのタチが悪いのは、自分たちが考える常識が非常識であるということが判っても、それは例外と括ってしまい、何も学習しないことだ。けっきょく、自分たちの考えが浅はかだということを認めない。

 かくして、私は、親に虐待をされたと訴えても、親の行動は「教育的指導」的なことで括られてしまい、親に接すると本当に精神障害の度合いが酷くなるのだが、親を大切にしない、冷たいなどと詰られる。そんな常識は単なるバカの壁である。怒りは収まらない。