身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

正しい感覚。

 今日で、このBlogも継続600日目である。いくら、広く読まれるのが目的ではないといいつつも、これだけ読者のいないBlogを書き続けていることについて、自分でも、自分を褒めたら良いのかケナしたら良いのか判らない。

 なんとか600日、続いたか… というのが、率直な感想だ。しかし、倦怠期ではないが、明らかに雑にしか読まれなくなってきていて、なんとかしなくてはと思っている。決して投げ出しているわけではないのだが、力が入らない。

 

 さて、本題だ。最近、私が触れる文学作品で、よく「正しい」という表現を目にする。正しいといっても正解・不正解とかではなく、そうあるべきだ、というようなことについての表現だ。

 かなり前に読んだ小説では、舞台は80年代くらいの日本なのだけど、家にブルーバード(自動車)があることが「正しい」日本の中流家庭というような表現があった。「正しい」という言葉は使っていないが、村上春樹氏もブルーバードを同じようなものの象徴として使っていた。

 今日は、鷺沢萠著『あなたがいちばんすきなもの』(『夢を見ずにおやすみ』所収)で、

真梨子のような、若くて、特別な望みを持ちさえしなければ充分に綺麗で、親からのまっとうな愛情を享けて育った娘が、ナントカ商事のナントカ課に勤めている若い男性と新しい生活のスタートを切ろうとしている。そういうことが正しいことなのだと信代は思う。こんなふうに、自分でも「正しい」と理解できるくらいの正しさが信代は好きだ。

という表現が出てきた(講談社文庫版88ページ)。(「ナントカ商事のナントカ課に勤めている若い男性」とは「まぁ、つまりエリートなのだろう」とも表現されている。)

 ここでいう「正しい」というのは「王道」に通じる言葉であろうか。そう考えると、つくづく私は自分の人生に「正しい」ことはなかったのだなと思う。

 子供のころから部屋に幽閉され、ツルむのは不良の始まりといって友達付き合いを禁じられ、友達もいないし青春など謳歌してない。

 すべての「正しい」の基準は両親で、実際に、両親は自分たちの主張を警察官に伝えて私を殴らせたり、自分たちの「正しさ」を顕示してきた。今、考えるとファシズムである。

 もし、友達がいたりしたら、彼らの感覚と照らし合わせて、何が「正しい」のか理解できただろう。それがなかった結果、今の私は、自分で、何が「正しい」のか判断ができなくなっている。

 朝、起きたら前夜と考えることが全く違っていて、それで朝になってギャップが大きく苦しむことがある。感覚ではなく考えることで乗り越えようとして、頭ばかりで色々考え、寝ている間にも苦しんで朝になるとボロボロに疲れている。

 ファッショニスタ(私の主治医)に、よく両親を惨殺しませんでしたねと言われたことは書いたが、高校時代に精神を病んでもグレてもいないし、自分では、自分で考える「正しい」道を歩いてきたと思っている。

 しかしファッショニスタは、むしろ逆説的に、グレていれば精神を病むことはなかったと言う。それをいったら両親を惨殺していても精神を病むことはなかったはずだ。グレるという“道”を選択しなかったことは、自分では良かったと思っている。

 自分の中で、“その道”の「正しさ」とは、高校生くらいで、特に好きというほどでもない彼女との間に子供を作り、遊びたい盛り・勉強したい盛りに金のために汗しなくてはならないということである。それは、その道では「正しい」ことかもしれないが、私にとっては「正しくない」ことに思える。

 異性を愛さない、結婚しない、家庭を持たない。これらのオプションはファッショニスタを始めとして「正しくない」と捉える方が多いだろう。

 しかし、好きなことを全て禁じられ「正しくない」環境に置かれた私にとって、グレなかったことは、親を惨殺しなかったこと同様に、これからの時間を残しておくための「正しい」選択だったと、自分では思っている。